41-1
「——もし本当にそいつを愛しているなら、お前がやることはただ一つ…」
オズの声が、路地の静けさに落ちた。
「止めることだ」
まっすぐな言葉だった。迷いも、慰めも、一切ない。ただ、それだけが真実だと言い切るような声だった。
胸の奥に、何かが深く刺さる。
呼吸のやり方を、一瞬だけ忘れた。
目の前に差し出された手を、ただ見下ろす。夕焼けの残りが路地の隙間から差し込んで、その手の輪郭を淡く照らしていた。指先が震えている——自分の、指先が。
顔が上げられなかった。
言葉が、どこかに詰まって出てこない。胸の奥でぐるぐると回っているのに、声にならない。涙だけが勝手に頬を伝って、石畳に落ちていく。
「……嫌われないかな」
絞り出すように、声が漏れた。
自分でも驚くくらい、かすれていた。
問いというより、祈りに近かった。答えなんて出ないとわかっていても——口にしないと、踏み出せなかった。
オズは、首を振った。
「嫌われて相手の心に残るなら、それも『愛』としての形だろ」
淡々とした声だった。感情を乗せない、事実だけを並べる声。
それなのに——どうしてこんなに、胸に響くんだろう。
唇が震える。次の言葉を待って、息を止めていた。
「——それでも不安なら」
一拍の間があった。
「お前が嫌われた分、僕が愛してやる」
——時間が、止まった気がした。
目を見開いたまま、固まる。
頭の中が、真っ白になる。言葉の意味を咀嚼しようとして、うまくできなくて、また最初から繰り返した。
——お前が嫌われた分、僕が愛してやる。
おかしい、と思った。
こんな言葉を告げられたら、いつもなら胃がひっくり返るような吐き気が来るはずだった。喉の奥が酸っぱくなって、足元がぐらついて、気絶寸前になるはずだった。
なのに——今は、何も来なかった。
ただ、胸の奥が静かに揺れている。波紋みたいに、じわじわと広がって——消えない。
視線が、自然と上がった。
深緑色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。いつもの飄々とした色も、観察するような鋭さも、今はない。ただ、真剣に見ていた。
「……は」
声が、漏れた。
「はは……」
笑い声なのか、泣き声なのか、自分でもよくわからなかった。
涙が溢れているのに、口角が上がっていく。止めようとしても止まらない。くしゃくしゃに歪んだ顔のまま、笑ってしまった。
「……何それ」
袖で涙を拭う。一度拭っても、またすぐに溢れる。情けない。本当に情けないのに——不思議と、それがどうでもよかった。
差し出されたままの手を、見つめた。
少しだけ、躊躇った。
——それでも。
震える指先を、そっと重ねた。
冷たいと思っていた。なのに、温かかった。当たり前のことなのに、それがひどく意外で——また、目の奥が熱くなる。
「……ありがとう」
掠れた声で、それだけ言った。
それ以上の言葉は、出てこなかった。出さなくてもいい気がした。
オズは何も言わなかった。ただ、握り返した手に、わずかに力を込めた。
路地の奥で、秋の風がふっと吹き抜ける。夕焼けの残りが建物の隙間に溶けて、空の色が少しずつ深くなっていく。
その瞬間に、決まった。
犯人を止める。罪を、償わせる。
嫌われるかもしれない。壊れるかもしれない。それでも——このまま見て見ぬふりをして、誰かがまた傷つくのを待っていることだけは、できなかった。
愛しているなら、止めること。
あの言葉が、静かに胸の奥に根を下ろしていた。
繋いだ手の温かさを確かめながら、私は顔を上げた。深緑色の瞳が、夕暮れの光の中にあった。
行こう、と——口にする前に、彼が先に歩き出した。
手は、繋いだままだった。
私はその背中を見ながら、一歩だけ遅れて、石畳を踏んだ。
夕暮れの色が、二人の影を長く伸ばしていた。




