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57/113

40-1

 どれくらい歩いただろう。


 クイーンズ・ヘイブンの重い扉を抜けると、秋の外気が頬を打った。背後の喧騒はとうに遠ざかり、代わりにホーソーン地区特有の湿った静けさがまとわりついていた。夕方の光は建物の隙間に沈み、狭い路地にはほとんど届かない。薄暗い石畳と、壁に染みついた煙草と酒の匂いが、息をするたびに胸の奥へ沈んでいく。


 オズは一度も振り返らない。ただ私の手を掴んだまま、迷いなく路地の奥へ進み——不意に足を止めた。


 壁際に引き寄せられ、背中が冷たい石に触れる。逃げ場はなかった。


 まっすぐ見下ろしてくる深緑色の瞳から、目が逸らせなかった。


「大丈夫か?——なんて僕は馬鹿な問いはしないぞ」


 低い声だった。抑えているのに、どこか棘がある。


 視線を上げられないまま、息だけが浅くなった。


「なぜ自分が犯人だと名乗ろうとした」


「……っ」


 喉が詰まって、言葉が出てこない。


 しばらくの沈黙のあと、やっと絞り出すように俯いた。


「……それが……一番いいと思ったから……」


 一拍の間。オズの小さなため息が耳に届いた。


「……お前は阿呆なのか」


 呆れた声と共に深緑色の瞳が細まり、訝しげに眉を寄せてこちらを映す。


「なぜいつも自分を犠牲にしたがる。理解に苦しむな」


 ——その言葉が引き金だった。


 じわりと胸の奥に溜めていたものがせり上がる。


 震える唇から勝手に言葉が吐き出されていた。


「……そうだよっ」


 顔を上げた。滲む視界のまま、彼を睨む。


「あんな顔、見たくなかったのっ……悪い⁉︎」


 声が震える。


 オズの目がわずかに見開かれた。


 ……そして、眉をぐっと寄せて言い返した。


「お前を裏切ったんだぞ。正気か!」


「そうだよ! 正気じゃないっ」


 叫ぶように返した瞬間、涙が溢れた。


「それでも……この先ずっと笑ってくれるなら……バカって言われても構わないよ……っ」


 息がうまく吸えない。


「みんなが幸せなら……私なんて、どうなったっていい……っ」


 涙を拭っても止まらない。


 静まり返った路地に、自分の呼吸だけがやけに大きく響く。


 オズは何も言わなかった。ただ、じっとこちらを見ている。その視線から逃げたくなるのに、足は動かなかった。


「……——だからって、リッパーのフリをするのは間違っているはずだ」


 静かな声だった。


 その一言で、呼吸が止まる。


 涙がぴたりと止まり、心臓だけが大きく鳴った。


 ………なんでっ。


 視線を落とし、唇を噛む。何も言えないまま、ただ立ち尽くす。


 路地の奥、わずかに残った夕焼けが建物の隙間から差し込み、オズの横顔をかすかに照らしていた。


 その表情は読めない。


 それでも——次の言葉を、待っている自分がいた。


 ……彼は一歩、こちらに踏み込んだ。


「お前は犯人の正体を知っていた。だから、リッパーの衣服を自分で用意して、捜査を撹乱した」


 淡々とした声だった。逃げ場を塞ぐように、言葉だけが正確に落ちてくる。


「犯行に見境がないように見せかけるために僕たちを襲った。違うか」


 否定できなかった。言葉が喉に張り付いて、動かない。ただ、そのまま最後まで聞いた。


 涙は、もう出ていなかった。


 ゆっくりと顔を上げる。


 真正面から、彼を見た。


「……なんで」


 自分でも驚くほどのかすれた声だった。


 肯定とも、否定ともつかない問い。


 オズは一瞬だけ目を細めると、ポケットに手を入れた。


 ——取り出したのは、小さな光源だった。


 カチ、と乾いた音がして、淡い光が灯すとそれを私の手元へ向ける。


 淡い光が指先をなぞって照らすと私の手が蛍光色に光った。

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