40-1
どれくらい歩いただろう。
クイーンズ・ヘイブンの重い扉を抜けると、秋の外気が頬を打った。背後の喧騒はとうに遠ざかり、代わりにホーソーン地区特有の湿った静けさがまとわりついていた。夕方の光は建物の隙間に沈み、狭い路地にはほとんど届かない。薄暗い石畳と、壁に染みついた煙草と酒の匂いが、息をするたびに胸の奥へ沈んでいく。
オズは一度も振り返らない。ただ私の手を掴んだまま、迷いなく路地の奥へ進み——不意に足を止めた。
壁際に引き寄せられ、背中が冷たい石に触れる。逃げ場はなかった。
まっすぐ見下ろしてくる深緑色の瞳から、目が逸らせなかった。
「大丈夫か?——なんて僕は馬鹿な問いはしないぞ」
低い声だった。抑えているのに、どこか棘がある。
視線を上げられないまま、息だけが浅くなった。
「なぜ自分が犯人だと名乗ろうとした」
「……っ」
喉が詰まって、言葉が出てこない。
しばらくの沈黙のあと、やっと絞り出すように俯いた。
「……それが……一番いいと思ったから……」
一拍の間。オズの小さなため息が耳に届いた。
「……お前は阿呆なのか」
呆れた声と共に深緑色の瞳が細まり、訝しげに眉を寄せてこちらを映す。
「なぜいつも自分を犠牲にしたがる。理解に苦しむな」
——その言葉が引き金だった。
じわりと胸の奥に溜めていたものがせり上がる。
震える唇から勝手に言葉が吐き出されていた。
「……そうだよっ」
顔を上げた。滲む視界のまま、彼を睨む。
「あんな顔、見たくなかったのっ……悪い⁉︎」
声が震える。
オズの目がわずかに見開かれた。
……そして、眉をぐっと寄せて言い返した。
「お前を裏切ったんだぞ。正気か!」
「そうだよ! 正気じゃないっ」
叫ぶように返した瞬間、涙が溢れた。
「それでも……この先ずっと笑ってくれるなら……バカって言われても構わないよ……っ」
息がうまく吸えない。
「みんなが幸せなら……私なんて、どうなったっていい……っ」
涙を拭っても止まらない。
静まり返った路地に、自分の呼吸だけがやけに大きく響く。
オズは何も言わなかった。ただ、じっとこちらを見ている。その視線から逃げたくなるのに、足は動かなかった。
「……——だからって、リッパーのフリをするのは間違っているはずだ」
静かな声だった。
その一言で、呼吸が止まる。
涙がぴたりと止まり、心臓だけが大きく鳴った。
………なんでっ。
視線を落とし、唇を噛む。何も言えないまま、ただ立ち尽くす。
路地の奥、わずかに残った夕焼けが建物の隙間から差し込み、オズの横顔をかすかに照らしていた。
その表情は読めない。
それでも——次の言葉を、待っている自分がいた。
……彼は一歩、こちらに踏み込んだ。
「お前は犯人の正体を知っていた。だから、リッパーの衣服を自分で用意して、捜査を撹乱した」
淡々とした声だった。逃げ場を塞ぐように、言葉だけが正確に落ちてくる。
「犯行に見境がないように見せかけるために僕たちを襲った。違うか」
否定できなかった。言葉が喉に張り付いて、動かない。ただ、そのまま最後まで聞いた。
涙は、もう出ていなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
真正面から、彼を見た。
「……なんで」
自分でも驚くほどのかすれた声だった。
肯定とも、否定ともつかない問い。
オズは一瞬だけ目を細めると、ポケットに手を入れた。
——取り出したのは、小さな光源だった。
カチ、と乾いた音がして、淡い光が灯すとそれを私の手元へ向ける。
淡い光が指先をなぞって照らすと私の手が蛍光色に光った。




