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名前を呼んでも、彼は振り返らなかった。
くすんだ金色の髪が、シャンデリアの光を鈍く受けている。その背中が、私とヘンリーさんの間に立ちはだかっていた。深緑色の瞳が静かにホール全体を見渡す。
誰も声を出さなかった。
娼婦たちが、憲兵たちが、思い思いの場所で固まったまま、その青年を見つめている。天井の明かりの下で、誰かの息を呑む音だけが妙にはっきりと鼓膜に届いた。
その沈黙を、オズが破った。
「——随分と、愉快な見世物だな」
低く、乾いた声だった。感情を乗せない——いや、乗せないようにしている声。
ホールの空気が、ぴんと張り詰めた。
「成績が優秀で、身長が合って、得意武器が同じ。それだけで人を犯人に仕立てるなら、憲兵の仕事とは随分と楽なものだ」
娼婦たちの視線が、マティアからオズへと一斉に動いた。まるで潮の流れが変わるように。
一斉に注がれる視線の中で、彼は微塵も動じなかった。腕を組んで、むしろ愉快そうに口角を上げている。その表情だけ見れば——ただの傲慢な少年だ。
だが、目が笑っていなかった。
「一つ答えてみろ」
深緑色の瞳が、ヘンリーさんへ向いた。
「彼女がリッパーなら、なぜチャールズ・クロウの白骨遺体を移動させる必要があった。自分が殺した相手を、わざわざ別の場所に移す——その合理的な理由を説明できるか」
ヘンリーさんが、わずかに眉を動かした。
答えが、返ってこない。
「……口ではなんとでも言える」
代わりに口を開いたのは、マダムだった。キセルを口から離して、紫煙を細く吐き出しながら、値踏みするような目でオズを見据える。
「アメリアかエリスへの濡れ衣のため——という可能性もあるだろうね。大切な人間を守るために証拠を操作しようとした、そういう見方もできる」
私の肩がビクッと跳ねた。
あまりにも的確な言葉だった。否定したくて、でも声が出なかった。喉が塞がっているみたいで、何も出てこない。
隣でオズが、小さく鼻を鳴らした。
「……なんだい」
「濡れ衣を着せたいなら、なぜ誰も近づかない中庭の花壇に遺体を埋めた」
一歩、前に出る。
「罪をなすりつけたいなら、見つかりやすい場所に移して、特定の人間に繋がる証拠を周囲にばら撒くのが筋だろう。なのに、犯人はわざわざ人目につかない場所に丁寧に埋めている」
紫煙が天井へ昇っていく。マダムは何も言わなかった。
「隠すのは——隠す必要がある人間がいるからだ。犯人本人か、それとも犯人を守ろうとした誰かか。いずれにしても、彼女が仕組んだという論理は成立しない」
心臓が、嫌な音を立てた。
マダムの栗色の瞳が、かすかに細まった。何を考えているのか、読み取れなかった。反論するでも、引き下がるでもなく——ただ、じっとオズを見ていた。
その沈黙が何を意味するのか、私にはわからなかった。
「それに」
オズの声が、また一段低くなった。
「お前たちの証拠はすべて状況だ。決定的なものは何一つない」
視線が、ゆっくりとホール全体に向けられた。娼婦たちを、憲兵たちを、一人ずつ見渡すように。
「——これ以上、僕の身請け人に手を出すな」
最後だけ、声に何かが混じった。
怒りとも違う。もっと静かで——けれど、絶対に引かないという意志だけが、はっきりと滲んでいた。
ただの学生が発する声ではなかった。娼婦たちの誰かが、小さく息を呑んだ。憲兵の一人が、無意識に半歩引いた。
ホールの空気が、少しだけ変わった。
オズはそれを確かめるように一度だけ息をついてから、ヘンリーさんだけを正面から見据えた。
「彼女が犯人だと言うなら、僕が無実を証明してやる。そうなった時は、それ相応の責任を全員に取ってもらう」
断言だった。迷いも、保留も、一切なかった。
「ゆめゆめ忘れるなよ」
ヘンリーさんが口を開きかけた。
それより早く、オズの手が後ろへ伸びて——私の手を、強く掴んだ。
「! 待て……待ちなさい!」
「っ」
引っ張られるまま、足が動いた。玄関口へ向かって、半ば引きずられるように歩き出す。オズは一度も振り返らない。ただまっすぐに、前だけを見て歩いていた。
視界の端に、エリスの姿が映った。
アメリア姐さんの胸に顔を埋めたまま、小さな肩を震わせている。その背中が、私がここにいることに気づいていないみたいに——ただ、揺れていた。
声をかけられなかった。
足が、勝手に前へ進んでいく。
アメリア姐さんのことは、見なかった。見たら、本当に動けなくなる気がした。
玄関口を抜けた瞬間、冷たい外の空気が頬を打った。石畳の向こうに、午後の色街が広がっている。さっきまでと何も変わらない、いつもの景色だった。
ホールの中の声が、扉一枚隔てた向こうに遠ざかっていく。
掴まれた手が、じわりと温かかった。
涙が出そうなのに、何に泣きたいのかがわからなかった。アメリア姐さんに目を逸らされたことか。エリスが泣いていたことか。それとも——そのどちらも、ちゃんと見てしまっていたからか。
どれも、正解な気がした。
「……オズ」
歩きながら、小さく名前を呼んだ。
彼は振り返らなかった。それでも、掴んでいた手に、わずかに力が込められた。
それだけだった。
それだけで——なぜか、もう少しだけ歩けた。
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扉が閉まると同時に、張り詰めていた空気がほどけた。
「……今の、どういうこと?」
「さあ……」
押し殺していた声が、ホールのあちこちで滲むように広がる。疑いも確信も揺らぎ、誰もが落ち着かない視線を交わしていた。
憲兵の何人かが二人を追うように出て行く。それに煽られるように、娼婦たちのざわめきがさらに広がった。
「静かにおし」
マダムの一声で、ざわめきはぴたりと止まる。キセルを持つ指先に、わずかな力がこもっていた。
その中で、エリスだけが動けずにいた。涙で濡れた顔のまま、扉を見つめている。
「……行きましょうか」
憲兵に腕を取られ、エリスは抵抗なく歩き出す。アメリアも無言でその後を追った。いつもの柔らかな笑みはどこにもなく、ただ寄り添うように歩いている。
二人の背が奥へ消えると、再び小さなざわめきが戻る。
——そのとき、どこからともなく青い蝶が舞い降りた。
淡く光る翅が、迷いなくマダムの頭に降りる——それに気づく者はいなかった。
マダムはただ煙を吐いた。二人が消えた扉の先を睨む目元に、かすかな苛立ちが滲んでいる。
蝶は静かに翅を揺らしていた。——まるで、この混沌を愉しむかのように。




