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マダムの言葉が、ホールの空気を変えた。
シャンデリアの光は変わらず煌びやかに天井を照らしているのに、その下にいる娼婦たちの視線が、じわじわとこちらへ向いてくる。誰かがヒソヒソと隣の人間に耳打ちをして、また別の誰かがこちらを見て目を逸らした。
呼吸が、浅くなっていく。
——気のせいじゃない。みんなの目が変わっていく。
「マダム、いい加減にしてっ!」
アメリア姐さんの声が、静まりかえったホールに響いた。金茶色の瞳が珍しく釣り上がって、真っ直ぐマダムへ向けられている。
「言いがかりもいいところだわ。マティアの成績が優秀だったからって、それだけで疑うなんて——何を根拠にっ」
「根拠、ねぇ……」
マダムはゆっくりとキセルを口に運んだ。紫煙がほんのりと甘い匂いを漂わせながら、天井へと溶けていく。
「根拠ならあるよ……そうだろ、副隊長殿」
「………」
「………ヘンリーさん?」
ヘンリーさんが、黙った。
アメリア姐さんが困惑したように振り返る。その瞳に浮かんだ不安を見て、私の心臓が嫌な音を立てた。
「……実は」
ヘンリーさんはゆっくりと口を開いた。苦しそうに眉を下げながら、憲兵から証拠品を受け取って、見えるように広げる。
折り畳まれていた黒いズボンが、広げられた。
——見た瞬間、息が止まった。
ズボンの裾に縫いつけられた靴。レギンスのように動きやすい作り、そして不自然なまでに分厚い底。二十センチ以上はある、あの靴が——。
「見ての通りです。この厚底を合わせると、マティアちゃんの身長はちょうどチャールズの記録と一致する……そして、これほどの靴を履いて自由に動き回れる人間は限られる」
ヘンリーさんの視線が、まっすぐ私に向いた。青い瞳の奥に、迷いと確信が混ざっていた。
「成績トップの君なら、動けた」
「——出鱈目よっ!」
アメリア姐さんの声がまたホールを揺らした。
「そんなことでマティアを疑うなんて……見損なったわっ」
「アメリア……それだけじゃないんだ」
ヘンリーさんの視線が、そっとエリスへ向く。アメリア姐さんの剣幕が一瞬だけ揺らいで、彼女も娘を見つめた。
「……エリス?」
「……お母さん」
ずっと沈黙していたエリスが、やっと声を出した。震えた、掠れた声だった。スカートをきつく握りしめた指先が、白くなっている。
「——マティアお姉ちゃんに、頼まれたの」
ホールの空気が、止まった。
「この服を、隠してって。白骨遺体を見つけた時に……ナイフを見せながら、一緒に黙っててって」
エリスの声は、一言ごとに途切れた。俯いたまま、顔が見えない。それでも彼女の涙が石畳に落ちていくのだけは、遠くからでもわかった。
「あの夜……巡回が東の区画になって、お姉ちゃんが焦ってて……もう秘密にするのはダメだって思ったから……っ」
そこで声が割れた。エリスが膝から崩れ落ちて、両手で顔を覆う。小さな肩が、波打つように震えていた。
——空気が、完全に凍りついた。
憲兵たちの視線が私に向く。娼婦たちの視線が私に向く。
エリスへは哀れみが。私へは——刃のような冷たさが。
拘束が一瞬緩んだ隙に、アメリア姐さんが憲兵を振り払ってエリスへ駆け寄った。
「エリスっ……もう大丈夫。大丈夫だから」
柔らかく、必死な声だった。エリスを強く抱き寄せながら、その頭を胸に引き寄せる。エリスはしゃっくりを上げながら、しくしくと泣き崩れた。
「ぐすっ……ごめんっ……ごめんなさいっ……!」
「……」
私は、何も言えなかった。
エリスの言葉が頭の中をぐるぐると回っているのに、何も処理できない。心臓の音が遠い。指先から体温が抜けていくのだけが、やけにはっきりとわかった。
「まあ……確かに最近の挙動、怪しかったわよね」
ふいに声がして、顔を向けるとイザベラ姐さんと目が合った。いつも愉快げなその瞳に、今は見慣れない色が浮かんでいる。冷たいというより——迷っているような、切実なような目だった。
「普段から何かこそこそしてるし……」
「そうよ、庭師さんにも異常に怖がってたもんね」
あちこちから声が上がり始める。一人が口にすると、また別の誰かが続く。ホールの空気が、囁き声で埋まっていく。
その中で一人だけ——声を上げずに俯いた娼婦がいた。それが誰かを確認する余裕は、もうなかった。
「……マティアちゃん」
ヘンリーさんの声が、靄の向こうから届くように聞こえた。
「エリスちゃんと一緒に、ご同行を」
顔を上げる。ヘンリーさんの青い瞳が、まっすぐこちらを見ていた。今まで見たことのないほどの厳しい目だった。
助けを求めるように、視線がひとりでに動く。
——アメリア姐さん。
エリスを抱きしめる姐さんと、目が合った。
「……っ」
合った、と思った瞬間——姐さんは静かに顔を逸らした。
「……‥ぁ」
声にならない声が、喉から漏れた。
時間が止まったみたいに呼吸ができない。ポロポロと涙が出てくるのが、自分でもわかった。痛みは、少し遅れてやってきた。
わかってた。わかってたはずなのに、こんなに胸が痛い。
手が震えながらも、パーカーの裾をきゅっと握る。目を閉じて、一度だけ深く息を吸った。
(……バカみたい。この展開を望んでいたはずなのに)
そうだ。全部、最初からこのためだった。
顔を上げる。涙を袖で拭って、ぎこちなく笑みを作った。足が震えているのを押し込めながら、一歩、前へ出る。
「……逮捕してください」
声が震えないように、精一杯堪えた。
「私が仕組んだんです。私がリッパーで——」
——その瞬間、肩を掴まれた。
誰かが私を後ろへ引いて、代わりに前に出た。
くすんだ金色の髪。
深緑色の瞳が、不快そうに細まって——ヘンリーさんをまっすぐに睨みつけていた。
「——オズ?」
名前を呼んでも、彼は振り返らなかった。




