37-1
娼館の扉を開けた瞬間、空気が違うとわかった。
廊下に人が溢れていた。娼婦たち、従業員、改修工事の作業員——それぞれが壁際に身を寄せて、ホールの中心から目を離せずにいる。誰も声を出さない。誰も動かない。ただ、息を呑んだまま、その光景を見つめていた。
私も、見た。
——心臓が、凍りついた。
煌びやかなシャンデリアの光の下に、アメリア姐さんがいた。藍色のドレスの袖を、白い軍服の憲兵に両側から掴まれて。金色の髪が乱れて、いつも穏やかな金茶色の瞳が、激しく揺れている。それでも姿勢だけは崩さずに、真っ直ぐ前を見据えていた。
「——姐さん」
声が出なかった。口が動いただけで、音にならなかった。
隣でオズが息を呑む気配がした。
「いやっ! 離して!」
アメリア姐さんの叫びがホールに響く。憲兵たちに両腕を掴まれながら、目の前に立つヘンリーさんを見据えていた。その視線には懇願と怒りが混ざっていて、見ているこちらの胸まで痛くなった。
ヘンリーさんはというと、エリスの両肩に手を置いたまま、眉を下げて姐さんを見つめていた。珍しく、表情が読み取れなかった。
「お願いよ、ヘンリーさんっ。エリスがそんな恐ろしいことをする子じゃないって、あなたも知っているでしょっ!」
「……アメリア」
普段は必ず敬称をつける彼が、珍しく名前だけで呼んだ。青い瞳が一瞬揺れる。それでも彼は、エリスから手を離さなかった。
「……わかってる。けど、エリスちゃんが自分から証言をしたんだ」
彼は一度言葉を切った。
「——自分が遺骨を発見して、移動させたって」
その言葉で、ホールの空気が変わった。娼婦たちのざわめきが、ぴたりと止まる。
ああ…恐れていたことが本当になってしまった。
自分の心臓の音が聞こえない。声も出ない。ただ、アメリア姐さんの顔から血の気が引いていく様子を、ただ見ていることしかできなかった。
「……嘘っ。エリス、どういうことなの。何か言ってっ」
「……」
アメリア姐さんの声が、震えている。憲兵に掴まれたままでも、身を乗り出すようにエリスを見つめていた。駆け寄りたくても、腕を掴まれて動けない。その歯痒さが、遠くから
でも伝わってきた。
けれどエリスは、何も答えなかった。ただゆっくりと瞼を伏せた。それだけだった。
「——エリスっ」
その沈黙が、姐さんの顔から最後の色を奪っていくようだった。唇が、小さく震えている。
「……俺も、エリスちゃんから話を聞いた時は信じられなかった。けど」
ヘンリーさんが憲兵へ目配せした。控えていた憲兵が前に出て、二つのものを取り出す。
「———ぇ」
目を疑った。
一つは、中庭でよく使っていた錆びたスコップ。もう一つは——黒い、布の塊だった。
折りたたまれたそれを見た瞬間、私の思考が止まった。
(違う……そんなはず……だってっ)
そう自分に言い聞かせながらも、目が離せなかった。
折り目の端から覗く黒い生地の質感が、縫い目の細かさが——知っている。なぜ知っているのか、自分でもわかっていた。でも……。
喉が鳴った。
その先を考えることを、頭が拒んでいた。衣装ダンスの下に隠したはずのあれが、なくなっていたことを——今だけは、考えたくなかった。
「先ほど、彼女が証拠としてこの二つを持ってきました。憲兵としては見逃せない。エリスちゃんに詳しい話を——」
「——嘘よ」
アメリア姐さんが、口を開いた。
静かな声だった。今度は震えていなかった。それがかえって、胸に刺さった。
「エリスの部屋に、そんなものはないわ。あるわけないでしょ!」
「アメリア……」
「あの子は何もしていないっ!」
姐さんの言葉に、ヘンリーさんが眉を下げる。困惑と申し訳なさが滲んだ表情で、それでも視線を逸らさなかった。
「……証拠が出た以上、話を聞かなければなりません」
その言葉に、アメリア姐さんが息を止めたように言葉を詰まらせる。
悲痛そうに顔を歪ませると彼女は泣くのを堪えるように俯いた。
「あなただけは、私の家族を守ってくれると思っていたのに」
呟くような声だった。それでもヘンリーさんの耳にはしっかり届いたのか、彼は今にも泣きそうな顔をして口を噤んだ。
「アメリア、ただ俺は——」
「……私よ」
「え?」
ヘンリーさんが眉を寄せる。娼婦たちのざわめきも消えた。
アメリア姐さんは、はっきりした声でまっすぐ彼を見据えた。
「私なの。私が——"リッパー"なの」




