36
中庭は、午後の光の中に静かに沈んでいた。
三方を建物に囲まれた石畳の庭は、日当たりが悪い分だけ空気が湿っていて、苔が石の継ぎ目にびっしりと根を張っている。昼間でも日陰になる場所が多く、秋の光が差し込む角度によって、庭全体がまだらに明暗を作っていた。
石畳の隙間から生えた雑草が、風もないのにわずかに揺れている。遠くで誰かの話し声がして、また消えた。
普段なら立ち入り禁止のこの場所。
……そのはずなのに。
「ひーん……ま、マダムに見つかったら……」
「首だろ。けど、僕はここで働いていないから問題ない」
「問題しかないんだけどっ」
嗚咽を漏らしながらオズの後ろをついていく。彼は腕を組んだまま、中庭をゆっくりと見渡していた。深緑色の瞳が、隅から隅まで丁寧に視線を流している。
私はその後ろで、ひたすらマダムの気配を探りながらついていった。心臓がずっとうるさい。足音を立てないようにつま先で歩くから、余計に疲れる。首筋が冷たい。それが秋の空気のせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、考えないようにしていた。
——ふと、オズの足が止まった。
「……おい、あそこに花壇がないか」
低い声で、一点を指差される。
釣られて視線を向けると——小さな物置小屋の裏手に、見覚えのある花壇があった。
枯れた茎が力なく首を垂れて、色を失った花びらが石畳に散らばっている。
胸の奥が、じわりと痛む。
アメリア姐さんとエリスと、三人で植えた花壇。まだエリスが小さかった頃、泥だらけになりながら土を掘り返して笑っていた。姐さんが種を植えて、エリスが水をやって——私はじょうろを倒してびしょ濡れになった。
怒られると思ったのに、姐さんは笑ってくれた。エリスは『お姉ちゃんはそそっかしいね』って呆れながら笑っていた。
そういう記憶が、枯れた茎と一緒にそこにある気がして——強張っていた表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……マティア」
「う、うん」
我に返って、オズの横に並ぶ。彼は花壇の縁にしゃがみ込んで、土を静かに見つめていた。
「土の色が、おかしい」
言われて、私も目を凝らす。
確かに——花壇の土が、周囲の石畳の色合いと違った。赤黒い。重たい、湿り気を含んだような色をしている。
(前にエリスと見た時は、こんな色じゃなかった……)
そこまで考えて、はっとした。
——待って。エリスと最後にここに来たのって、いつだっけ。
記憶を手繰り寄せようとした瞬間、オズが静かに口を開いた。
「腐敗の痕跡だ」
「——え?」
その言葉が、耳の中にゆっくりと落ちた。
腐敗。ふはい。腐敗……?
頭の中で音だけがぐるぐると回る。意味が、うまく追いつかない。なのに体だけが先に理解したみたいに、じわりと手の指先が冷たくなっていく。
オズがポケットからゴム手袋を取り出して、迷わず手にはめた。花壇の縁に指を差し入れて、土をそっとかき分け始める。
見てはいけない気がした。でも目が離せなかった。
数センチも掘らないうちに、オズの手が止まった。
白い、小さな破片が、土の中から覗いている。
「……ここに、遺体が埋められていた」
静かな声だった。感情を乗せない、事実だけを並べる声。
「白骨化するまでの間、ここに。その後、誰かが掘り出して——倉庫の木箱に移した」
「………」
私は何も言えなかった。
この花壇に。
アメリア姐さんとエリスと私が、一緒に笑いながら土を掘った、あの花壇に。
じょうろを倒して、三人で笑った、あの場所に——ずっと、誰かが埋まっていた?
(いや、でも。おかしい。だってここは娼館の中庭で、マダムが管理していて、庭師さんが毎日手入れをしていて——)
考えが勝手に走り出す。打ち消すための理由を、必死にかき集める。きっと別の説明がある。きっと私の見間違いだ。きっと——。
「……犯人が証拠を隠滅するために移したか」
オズが手袋を外しながら続ける。立ち上がり、静かに私を見た。
「あるいは——誰かが偶然見つけて、移動させたか」
その言葉が、耳の中に、落ちた。
誰かが、見つけて——。
頭の中で、何かが繋がった。音もなく、ゆっくりと。抗いたかったのに、止められなかった。
エリスの顔が浮かんだ。
あの日の中庭。スコップを持って、一人で花壇に向かっていた小さな背中。私が先に帰って——エリスだけが、残った。
それから急に、エリスの様子がおかしくなった。私に近づかれるとビクッと体を強張らせて、目を合わせなくなった。
——まさか。
違う。違う違う違う。
エリスが見つけたとして、それだけだ。それだけのことだ。移動なんてしていない。できるわけがない。だってあの子はまだ九歳で——。
「マティア」
オズの声が、思考を断ち切った。
気づいたら、彼が私の顔をじっと見ていた。何かを言いかけるように口を開いた——その瞬間。
「きゃああぁっ‼︎」
——娼館の奥から、女性の悲鳴が轟いた。
高く、鋭く、切り裂くような声。
秋の静かな中庭に響いて、消えた。
「な、なにっ」
私とオズは同時に振り返った。娼館の窓が、午後の光を受けて鈍く光っている。悲鳴はもう聞こえない。ただ、さっきまで漂っていた昼下がりの穏やかな空気が、跡形もなく消えたのは確かだった。
「——行くぞっ」
オズが先に走り出した。
私の足が、一瞬だけ止まった。
枯れた花壇が、まだ視界の端に映っている。赤黒い土が。白い破片が。
悲鳴の主が、誰なのか——。
考えたくなかった。考えてしまったら、もう、取り返しがつかない気がした。
「マティア!」
オズの声が、遠くから飛んできた。
——それでやっと、足が動いた。
石畳を蹴って走り出す。秋の風が頬を打って、フードが背中に落ちた。
頭の中がまだ、ぐるぐると回っている。なのに体だけが、前へ前へと走り続けた。
ただ走った。オズの背中を追いかけながら、ただ走った。




