35
あの日から、いつの間にか数日が経っていた。
オズが言い放ったあの言葉…その瞬間から、私の中で何かが静かに腐り始めている気がしてならなかった。
『——僕は、犯人がクイーンズ・ヘイブンの中にいると考えている』
「……はぁ」
数日前のあの言葉が、頭から出ていかない。
ため息をついて、箒の柄を握り直す。廊下は何も変わっていない。秋の光が差し込んで、埃が舞って、遠くで誰かが鼻歌を歌っている。
いつも通りの昼下がり。
なのに、何もかもが違って見えるのはなぜだろう。
(……犯人は、ここにいる)
また、あの言葉が頭を回った。
箒を動かす手が、知らず知らずのうちに止まっていた。廊下の端に立ったまま、ぼんやりと前を見つめる。視線の先に、どっしりとした木製の扉があった。
——マダム・アッシュクロフトの書斎。
この娼館で一番重厚な扉。磨き込まれた真鍮の取っ手が、午後の光を鈍く照り返している。扉の前には装飾の施された敷物が敷かれていて、それだけで他の廊下と空気が違った。
見るだけでそこにマダムが立っているような気がして身震いした。
(……ま、マダムはいつも書斎が掃除されるのを嫌がるんだよね)
呆然と思いながら、その重厚な扉をもう一度見つめる。
以前、「私の部屋は自分で管理する」とひと言だけ言われて、それ以来誰も踏み込まない暗黙の了解ができている。掃除を申し出た娼婦が、キセルの煙をふかされながら無言で追い返されたという話も聞いたことがあった。
ごくっ……。
無意識に喉がなった。
な、何もしなければ怒られない……な、何もしなければ怒られない……はず。
そう思って箒を動かしかけた、その瞬間。
——ガチャ。
「ひんぎゃぁっ‼︎」
扉が開いた。
反射的に体が跳び上がり、箒を取り落とした。がらんと廊下に乾いた音が響く。慌てて拾い上げながら、頭を下げて必死に箒を動かし始めた。
ああ、やだ。手汗びっしょり…。
「しゅ、しゅ、しゅみませんっ! 掃除してただけです!」
目尻に涙が浮かんだ。見なくても、マダムの怪訝そうな視線がありありと思い浮かんだ。
「しょ、証人? を呼んできます! と、とにかく首だけは……首だけはどうかっ‼︎」
矢継ぎ早に捲し立てながら、必死に廊下を磨く真似をする。足が震えている。声も震えている。全部震えている。
——だけど。
(………あれ?)
怒声が飛んでこなかった。
ヒールの音もしない。キセルの匂いもしない。
お、おかしい……そう思って恐る恐る顔を上げると——深緑色の瞳と目が合った。
「………」
「………」
え、なんでいるの?
思考が氷のように固まった。
マダムではなかった。扉の前に涼しい顔で立っていたのは、くすんだ金色の髪をした青年——オズワルド・ウィズダムだった。腕を組んで、私の全力の懇願を一通り聞き終えた顔をしている。
「……で、その証人はいつ現れるんだ。いないなら話を進めるぞ」
「な、なんで……なんでマダムの部屋から……」
「留守だったから入った」
「空き巣の言い訳に聞こえるんだけど…っ⁉︎」
「それより聞け」
あっさりと話題を逸らして、オズは廊下へ出てきた。扉を静かに閉めながら続ける。
「先日の倉庫の件だが。鑑定の結果が出たぞ」
「……へ?」
「あの土だ。倉庫の木箱に付着していたやつ」
あの土。
記憶の底から引き上げるように思い出して、思わず息を呑んだ。
「やっぱりガーデニング用で間違いない。それも、かなり特殊な配合だ。保水性を高めるために特定の鉱物を混ぜている……この地区で使っている庭師はほとんどいない」
「……ほとんど、いない」
「一人を除いて、な」
オズが静かにそう言った。
廊下の空気が、すっと冷えた気がした。秋の風がカーテンを揺らして、光の帯が床を流れていく。それがやけに綺麗に見えて、場違いだと思った。
「……じゃあ、今の庭師さんが? けど、まだ来たばかりで——」
「前任の庭師がいただろう。殺されたから犯人かどうかはまだわからないが、あの土と中庭に関係があるか探るぞ」
オズが顎を撫でながら、まっすぐこちらを見た。
「け、けど……庭師さんまだ作業してるから」
「庭師には、もう会えないようにしてある」
「……え? ん? どういう——」
「眠らせた」
……さらっと言った。
さらっと、言ったよ。この人。
「ね、眠らせ……? ど、どうやって…」
「僕が調合したものを昼食に混ぜた」
そこで一拍だけ間を置いて、当然のような顔で付け加えた。
「三時間は目が覚めない。精度は保証する」
「精度の話をしてるんじゃなくて……こ、子供がやっていいことじゃないよ⁉︎」
「必要だったから仕方ないだろ」
悪びれる様子が微塵もない。むしろ当然のことを言っているような顔をしている。私は引き攣った笑みを浮かべたまま、「は、はは……」と乾いた声を漏らした。
「……と、とにかく。中庭に行くってこと?」
「そうだ。あの老耄に見つかるなよ」
「それ私が一番言いたかったやつ……っ」
涙目で返しながらも、足は動いていた。
うぅっ…なんでいつもこうなるの?
結局いつもそう。止めようとして、止められなくて、気づいたら一緒にいる。
自分の意志の弱さが、心底恨めしかった。




