33
ホーソーン地区の石畳は、昼下がりの光をまばらに受けて乾いた灰色に沈んでいた。
秋の風が建物の谷間を抜けて、フードの縁をわずかに揺らす。私はそれを両手で引き直しながら、ひたすら足元を見つめて歩いた。石と石の継ぎ目が、一定のリズムで視界を流れていく。
「見ろ、マティア。憲兵から被害者リストを盗っ……拝借してきたぞ」
隣を歩くオズが、得意げに声を上げた。手元には数枚綴じられた帳簿——「拝借」してきたというそれを、自慢げに突きつけてくる。
「一応言っておくが、盗んでいないぞ。白骨遺体があった現場に着くまで、一緒に見よう」
「………」
「………マティア?」
返事ができなかった。
視線は地面に落ちたまま、帳簿にも彼にも向かない。頭の中にあるのは、ただ一つの事実だった。
(——なんで、なくなっていたの)
確かに数日前に洗濯して、衣装ダンスの下に隠した。それ以来触れていないし、昨夜だって確認した。なのに、オズが差し込んだ手が引き抜いた時——指先には何もなかった。
最悪の可能性が頭を掠める。それしか思い浮かばない。でも、その先を考えようとするたびに、思考が霧の中に溶けて輪郭を失っていく。
(それに……チャールズの白骨遺体まで)
あの朝、ヘンリーさんから聞かされた事実が、ずっと頭の奥で腐ったままだ。倉庫の荷物の中に隠されていたと聞いた時から、嫌な感触が指先に居座り続けている。
「……何か盗まれたのか?」
オズの声が、霧を割くように耳に届いた。
ビクッと肩が跳ねる。顔を上げると、いつもの飄々とした表情とは少し違う、神妙な眼差しがこちらを向いていた。その言葉の正確さに動揺を隠せないまま、首を横に振った。
「え、あ……なんでもない」
視線をさまよわせて、誤魔化すように帳簿へ手を伸ばす。
「えっと……帳簿、見てもいい? 共通点がないように見えるけど」
オズはしばらく無言でこちらを見つめていた。追及しても口を割らないと判断したのか、小さく息をついて帳簿を私に見えやすい角度に傾けてくれた。石畳の向こうに色街の建物が並んでいる。午後の光が、古い石壁をぼんやりと照らしていた。
「ああ。無差別に被害者を選んでいるように見える」
顎に手を当てて考え込む横顔を横目に、私も帳簿へ視線を落とした。
名前が並んでいる。年齢も職業もばらばらだ。娼婦、客、使用人——。
「そ、そうだね……——あ」
思わず、指先が止まった。
「ほとんどが……富裕層の人たちだ」
「——富裕層?」
オズが片眉を上げる。珍しく、驚きに近い色が瞳に浮かんだ。
「うん……ホーソーン地区では富裕層って呼ばれる人たちがいて。人気の娼婦やマダム、それから太客のことを指すの」
「へぇ……」
感心したように声を漏らしながら、オズがもう一度帳簿を見つめた。空いた手が腰に当たり、思考が内側へ向いているのが横顔から伝わってくる。
「なるほど。ただ、報告書には金品を盗まれた形跡がない……金目当てではなさそうだが」
小さく独り言を続けてから、ふと振り返った。
「そういえば——娼婦たちはともかく、なぜ男性客が太客だとわかった?」
「え……えっと」
正当な疑問だった。一拍だけ迷って、フードの縁をぎゅっと引き寄せながら答える。
「クイーンズ・ヘイブンに何度か来店していたし、チップの羽振りも良かったから、印象に残ってて」
「ということは常連か」
「うん。マダムと親しい人もいたかな……」
そこまで口にして、自分の言葉が頭の中で静かに反響した。
(——全員、マダムと面識がある……?)
改めて帳簿の名前を目で追う。一人、また一人。視線が動くたびに、胸の奥で何かが冷えていくような感覚があった。
「今回はやけに協力的だな」
オズが静かにそう言った。
我に返って見上げると、深緑色の瞳がどこかを観察するような色をたたえてこちらに向いていた。
「いつもなら僕の足に縋ってみっともなく泣いているだろう。何があった」
「い、いや……えっと」
言葉が出てこない。口を開いては閉じる。石畳のひび割れを見つめると、頭の中でアメリア姐さんの顔が浮かんで——また遠ざかっていく。
気づいたら、唇が動いていた。
「……もうすぐ、色々終わるからかな」
「——終わる?」
オズの声が一段低くなった。視線が自然と持ち上がる。彼の眉がぴくりと反応して、訝しげな色が瞳に滲んでいた。
「どういう意味だ」
「……え! あ、なんでもないっ」
焦りが体中を駆け抜けた。首を勢いよく横に振って、ぎこちない笑みを貼りつけながらキョロキョロと周囲を見回す。冷や汗が額を伝う。
「そ、そういえば! 白骨遺体が出たの、倉庫なんだよね? ど、どこにある倉庫だったの⁉︎」
声が上擦る。明るい調子を作ろうとすれば、かえって空虚に響く。それでも話題を逸らすことだけを考えていると、オズはしばらく遠い目で私を見ていた。呆れているのか、別の何かを考えているのか、表情からは読み取れない。
やがて深く息をついて、一方向へ指を差した。
「あそこだ。荷物の中に遺体が隠されていたらしい」
「へ、へー! どこどこ——……ぇっ」
声が途切れた。
指が差した方角に、見覚えのある建物があった。くすんだ石壁。古い木の扉。路地の奥に埋もれるように建つ、あの倉庫。
木箱の隙間に体を押し込んで、膝を抱えて泣いていた。オズに見つけられて、引き出された。その倉庫。
「————」
声が出なかった。
音が遠のいていく気がした。帳簿を持ったまま、秋の風の中で立ち尽くす。視線だけが石畳の先の扉に吸い寄せられて、離れなかった。
隠れたつもりで、泣き崩れていたあの場所に——誰かの骨が眠っていた。




