31
チャールズ・クロウが、死んでいた。
その事実が頭の中をゆっくりと回っている。ぐるぐると——回るだけで、どこにも着地しない。
廊下の端に立てかけておいた箒を握る手が、小刻みに震えていた。片手で顔の下半分を覆って、それ以上の表情が外に漏れるのをなんとか押さえる。うまくできているのかは、わからなかった。
(なんで見つかったの)
さっき頭をよぎったその問いが、まだそこにある。答えを探そうとするたびに、思考が逃げていく。直視できない。直視したら——何かが崩れてしまいそうだった。
「なので先ほども申し上げた通り、チャールズ・クロウを容疑者から外す形で今後の調査を進め——」
ヘンリーさんの声が、遠くに聞こえた。
なんで……だって、まさかそんな……。
——ガチャン。
硬い音が玄関ホールに響いた瞬間、私の意識が現実に引き戻された。
陶器が砕ける鋭い音と、金属のトレーが石畳を転がる間延びした音が重なって、ヘンリーさんの言葉を断ち切る。娼婦たちの視線が一点に集中した。
私も振り返った。
廊下の入り口に、エリスが立っていた。
足元に、割れた皿とひっくり返ったトレーが散らばっている。そこから視線を上げると——エリスの顔が、今まで見たことがないくらい白かった。
唇が震えている。大きな金茶色の瞳が見開かれたまま揺れている。その目が何を見ているのか、私には判断できなかった。ヘンリーさんを見ているのか、ホールの空気を見ているのか——あるいは、さっき聞いた言葉を、頭の中でまだ追いかけているのか。
「……エリス?」
アメリア姐さんの声が、静まり返ったホールに落ちた。
歩み寄ろうとした姐さんの動きが途中で止まる。マダムがエリスの肩にそっと手を置いたからだった。静かで、有無を言わさない動作だった。
娼婦たちの視線が、今度はマダムへ向く。
「……ヘンリーさん」
マダムが口を開いた。煙草の煙みたいに低く、乾いた声だった。
「報告はありがたいが、うちには幼い子もいる。仕事に支障が出ては困る」
「……申し訳ございません。皆さんの安全のための報告のつもりでしたが」
ヘンリーさんが一拍だけ言葉を止めて、エリスへ視線を向けた。
その視線に気づいたのか、エリスがビクッと体を縮こませた。足元の割れた皿から目を逸らして、マダムの陰に隠れるように身を寄せる。
ヘンリーさんはしばらくエリスを見ていた。何かを言いかけるような間があった。
——けれど、結局口を閉じた。
「では、報告はここまでとさせていただきます。不要不急の外出は控えるよう……何かあれば憲兵隊までご連絡を。本日はありがとうございました」
一礼して、踵を返す。もう一度だけ——ほんの一瞬——エリスの方へ視線が流れた。複雑な色を帯びた、読み取りにくい表情だった。それから青い髪が朝の光の中に消えて、憲兵たちの足音が遠ざかっていった。
ヘンリーさんたちが去ると、娼婦たちのざわめきが戻ってくる。けれど先ほどより小さく、どこか遠慮がちだった。
アメリア姐さんがエリスに駆け寄った。しゃがんで目線を合わせると、震える体を静かに抱き寄せる。
「エリス。怖かったわよね……ごめんなさい」
心配げに眉を下げて、その柔らかな頬をそっと撫でた。エリスの震えが、わずかに小さくなる。
「お母さんっ……ひくっ」
名前を呼んだ声が、しゃっくりで割れた。エリスはアメリア姐さんの胸に顔を埋めると、小さな手で背中をきゅっと掴んだ。縋るような、その手つきが胸に刺さった。
私は少しずつ、二人に近づいた。
「え……エリス」
肩に手を触れようとした、その瞬間。
エリスの体が、ビクッと硬くなった。
何も言わないまま、アメリア姐さんの胸に顔をさらに深く押し込む。私の手が届かない場所へ、身を寄せるように。
伸ばしかけた手を、引っ込めた。
ここ数日、中庭で会ってからエリスはずっとこうだった。何があったのかわからないまま、理由もわからないまま——ただ、避けられている。
胸が痛い。声が出ない。泣きそうなのをこらえながら、目を伏せた。
——パン、パン。
マダムが手を打つ音が、ホール全体に響いた。娼婦たちのざわめきが止まる。
「ほら、何をぼんやりしてるんだい。白骨が出ようが死体が出ようが、私たちの仕事は変わらない。さっさと動きな」
鶴の一声だった。
娼婦たちが慌てて散っていく。皿の破片を片付ける者、仕事場に引き返す者、それぞれが思い思いの方向へ歩き出す。
アメリア姐さんがエリスから少し体を離して、その目をそっと覗き込んだ。
「奥で少し休みましょうか。今日はお仕事しなくていいから」
「……」
エリスは何も言わなかった。ただ、小さく一度だけ頷いた。
二人が奥の廊下へ向かいかける。その直前、アメリア姐さんが一瞬だけ振り返った。金茶色の瞳が、私を見つめる。
「ごめんね……」
柔らかな声だった。申し訳なさそうで、それでいて温かかった。
場違いだとわかっていても——心臓がきゅっと締め付けられた。
二人の後ろ姿が廊下の奥に消えていく。エリスは一度も振り返らなかった。
その事実だけが、胸にじんわりと残った。
ぼんやりと立ち尽くしていると、背後から声がかかった。
「マティア」
「ひゃいっ⁉︎」
飛び上がった。反射的にギギギと首を回すと、マダムがそこにいた。
明るい栗色の切れ長の瞳が、真正面からこちらを見下ろしている。それだけで心臓が凍りつく。体が勝手に箒を握り直して、その場から逃げようと足に力が入った。
「ご、ごめんなひゃいっ、しゅぐ掃除——」
「待ちな」
首根っこを掴まれた。
「ひぎゃあっ!」
引き止められて目の前に立たされる。マダムが深くため息をついて、キセルに煙草の火をつけた。紫煙がゆらりと天井へ昇っていく。
「倉庫のワインが足りなくなりそうだ。いつもの工房で追加注文をしてきてくれ」
「……へ? ワイン……?」
死の宣告じゃなかった。意識が浮上してくる感覚があって、思わず目を瞬いた。
「あ、あの……ワインの発注はエリスが数日前に済ませたはずで……」
「私に逆らうのかい」
「しゅみましぇんっ!」
即座に頭を下げた。正座できる勢いで膝が折れかけた。マダムが冷めた目でそれを見下ろして、また深く息をついた。
「……客が多い。追加が必要なんだよ。それにあの子があんな状態で仕事できるわけないだろ。いいから行ってこい」
追加注文する銘柄の書かれた紙を差し出してくる。受け取ると、それが現実の感触を持って指先に伝わってきた。
「は、はいっ。すぐ行ってきます」
逃げるように地面を蹴った。
走り出してすぐ、奥の廊下へ向かう通路が視界に入った。
二人が消えた方向。エリスがいる場所。
足が一瞬だけ鈍った。けれど向かったところで何もできない。それはわかっていた。
歯痒さを胸の奥に押し込めて、私はワイン工房へ向かって歩き出した。
秋の朝の光が、石畳の上に長い影を伸ばしていた。




