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 チャールズ・クロウが、死んでいた。


 その事実が頭の中をゆっくりと回っている。ぐるぐると——回るだけで、どこにも着地しない。


 廊下の端に立てかけておいた箒を握る手が、小刻みに震えていた。片手で顔の下半分を覆って、それ以上の表情が外に漏れるのをなんとか押さえる。うまくできているのかは、わからなかった。


(なんで見つかったの)


 さっき頭をよぎったその問いが、まだそこにある。答えを探そうとするたびに、思考が逃げていく。直視できない。直視したら——何かが崩れてしまいそうだった。


「なので先ほども申し上げた通り、チャールズ・クロウを容疑者から外す形で今後の調査を進め——」


 ヘンリーさんの声が、遠くに聞こえた。


 なんで……だって、まさかそんな……。


 ——ガチャン。


 硬い音が玄関ホールに響いた瞬間、私の意識が現実に引き戻された。


 陶器が砕ける鋭い音と、金属のトレーが石畳を転がる間延びした音が重なって、ヘンリーさんの言葉を断ち切る。娼婦たちの視線が一点に集中した。


 私も振り返った。


 廊下の入り口に、エリスが立っていた。


 足元に、割れた皿とひっくり返ったトレーが散らばっている。そこから視線を上げると——エリスの顔が、今まで見たことがないくらい白かった。


 唇が震えている。大きな金茶色の瞳が見開かれたまま揺れている。その目が何を見ているのか、私には判断できなかった。ヘンリーさんを見ているのか、ホールの空気を見ているのか——あるいは、さっき聞いた言葉を、頭の中でまだ追いかけているのか。


「……エリス?」


 アメリア姐さんの声が、静まり返ったホールに落ちた。


 歩み寄ろうとした姐さんの動きが途中で止まる。マダムがエリスの肩にそっと手を置いたからだった。静かで、有無を言わさない動作だった。


 娼婦たちの視線が、今度はマダムへ向く。


「……ヘンリーさん」


 マダムが口を開いた。煙草の煙みたいに低く、乾いた声だった。


「報告はありがたいが、うちには幼い子もいる。仕事に支障が出ては困る」


「……申し訳ございません。皆さんの安全のための報告のつもりでしたが」


 ヘンリーさんが一拍だけ言葉を止めて、エリスへ視線を向けた。


 その視線に気づいたのか、エリスがビクッと体を縮こませた。足元の割れた皿から目を逸らして、マダムの陰に隠れるように身を寄せる。


 ヘンリーさんはしばらくエリスを見ていた。何かを言いかけるような間があった。


 ——けれど、結局口を閉じた。


「では、報告はここまでとさせていただきます。不要不急の外出は控えるよう……何かあれば憲兵隊までご連絡を。本日はありがとうございました」


 一礼して、踵を返す。もう一度だけ——ほんの一瞬——エリスの方へ視線が流れた。複雑な色を帯びた、読み取りにくい表情だった。それから青い髪が朝の光の中に消えて、憲兵たちの足音が遠ざかっていった。


 ヘンリーさんたちが去ると、娼婦たちのざわめきが戻ってくる。けれど先ほどより小さく、どこか遠慮がちだった。


 アメリア姐さんがエリスに駆け寄った。しゃがんで目線を合わせると、震える体を静かに抱き寄せる。


「エリス。怖かったわよね……ごめんなさい」


 心配げに眉を下げて、その柔らかな頬をそっと撫でた。エリスの震えが、わずかに小さくなる。


「お母さんっ……ひくっ」


 名前を呼んだ声が、しゃっくりで割れた。エリスはアメリア姐さんの胸に顔を埋めると、小さな手で背中をきゅっと掴んだ。縋るような、その手つきが胸に刺さった。


 私は少しずつ、二人に近づいた。


「え……エリス」


 肩に手を触れようとした、その瞬間。


 エリスの体が、ビクッと硬くなった。


 何も言わないまま、アメリア姐さんの胸に顔をさらに深く押し込む。私の手が届かない場所へ、身を寄せるように。


 伸ばしかけた手を、引っ込めた。


 ここ数日、中庭で会ってからエリスはずっとこうだった。何があったのかわからないまま、理由もわからないまま——ただ、避けられている。


 胸が痛い。声が出ない。泣きそうなのをこらえながら、目を伏せた。


 ——パン、パン。


 マダムが手を打つ音が、ホール全体に響いた。娼婦たちのざわめきが止まる。


「ほら、何をぼんやりしてるんだい。白骨が出ようが死体が出ようが、私たちの仕事は変わらない。さっさと動きな」


 鶴の一声だった。


 娼婦たちが慌てて散っていく。皿の破片を片付ける者、仕事場に引き返す者、それぞれが思い思いの方向へ歩き出す。


 アメリア姐さんがエリスから少し体を離して、その目をそっと覗き込んだ。


「奥で少し休みましょうか。今日はお仕事しなくていいから」


「……」


 エリスは何も言わなかった。ただ、小さく一度だけ頷いた。


 二人が奥の廊下へ向かいかける。その直前、アメリア姐さんが一瞬だけ振り返った。金茶色の瞳が、私を見つめる。


「ごめんね……」


 柔らかな声だった。申し訳なさそうで、それでいて温かかった。


 場違いだとわかっていても——心臓がきゅっと締め付けられた。


 二人の後ろ姿が廊下の奥に消えていく。エリスは一度も振り返らなかった。


 その事実だけが、胸にじんわりと残った。


 ぼんやりと立ち尽くしていると、背後から声がかかった。


「マティア」


「ひゃいっ⁉︎」


 飛び上がった。反射的にギギギと首を回すと、マダムがそこにいた。


 明るい栗色の切れ長の瞳が、真正面からこちらを見下ろしている。それだけで心臓が凍りつく。体が勝手に箒を握り直して、その場から逃げようと足に力が入った。


「ご、ごめんなひゃいっ、しゅぐ掃除——」


「待ちな」


 首根っこを掴まれた。


「ひぎゃあっ!」


 引き止められて目の前に立たされる。マダムが深くため息をついて、キセルに煙草の火をつけた。紫煙がゆらりと天井へ昇っていく。


「倉庫のワインが足りなくなりそうだ。いつもの工房で追加注文をしてきてくれ」


「……へ? ワイン……?」


 死の宣告じゃなかった。意識が浮上してくる感覚があって、思わず目を瞬いた。


「あ、あの……ワインの発注はエリスが数日前に済ませたはずで……」


「私に逆らうのかい」


「しゅみましぇんっ!」


 即座に頭を下げた。正座できる勢いで膝が折れかけた。マダムが冷めた目でそれを見下ろして、また深く息をついた。


「……客が多い。追加が必要なんだよ。それにあの子があんな状態で仕事できるわけないだろ。いいから行ってこい」


 追加注文する銘柄の書かれた紙を差し出してくる。受け取ると、それが現実の感触を持って指先に伝わってきた。


「は、はいっ。すぐ行ってきます」


 逃げるように地面を蹴った。


 走り出してすぐ、奥の廊下へ向かう通路が視界に入った。


 二人が消えた方向。エリスがいる場所。


 足が一瞬だけ鈍った。けれど向かったところで何もできない。それはわかっていた。


 歯痒さを胸の奥に押し込めて、私はワイン工房へ向かって歩き出した。


 秋の朝の光が、石畳の上に長い影を伸ばしていた。

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