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リッパーの被害者が、別の高級娼館のマダムだったと判明したのは——事件から数日後のことだった。
朝刊の一面が、それを大々的に告げていた。
ホーソーン地区に長く根を張って生きてきた住民も、娼婦たちも、それぞれの顔に不安の色を浮かべている。百年以上の歴史が磨き上げてきたこの地区のセキュリティを、誰もが信じて疑わなかった。それが今、音もなく崩れかけている——そんな気配が、朝の澄んだ空気の中に溶けていた。
私は一階の廊下で箒を動かしながら、その気配をぼんやりと感じる。
被害にあったマダムとは、顔見知りだった。クイーンズ・ヘイブンにもよく立ち寄っていた、笑顔の印象的な人だった。言葉をいくつか交わしたことがある、ただそれだけの間柄だったけれど——もう声が聞けないと思うと、胸の奥がじわりと重くなった。
(また、誰かが……)
秋の朝の光が、廊下の窓から斜めに差し込んでいる。埃がその光の帯の中でゆっくりと舞い、また静かに落ちていく。箒の先を動かす手が、いつの間にか止まっていた。
——そして、そのまま何かに躓いた。
「ふぎゃっ!」
派手な音を立てて、高級なラグに顔から突っ込む。鼻に走った鋭い痛みに、目尻から涙が滲んだ。しばらく床と仲良くしてから、涙目で上体を起こして振り返る。
(も、木材?)
なんだったら工具まである。
こんなもの、いつからここに…。
困惑を覚えながら、首を傾げる。
そっと木材に触れようとした、その瞬間——
「すみませーん、大丈夫ですかー?」
「ぎゃああっ!」
と申し訳なさそうな声が飛んできて、体がビクッと跳ねた。
反射的に体が固まる。プルプルと座ったまま縮こまっていると、人の良さそうな笑顔の男性が駆け寄ってくる。
に、逃げないと…。
そんな考えが頭をよぎるも、男性はこちらの様子に気づかずに申し訳なさそうに話しかけてきた。
「改修工事の工具をここに置いていたんですよ。次から気をつけます」
言い残し、あっさりと荷物を抱えてその場を去っていく。
逃げる前に立ち去られた…。
呆然とその作業員の男性の背中を見送りながら、私は床に座り込んだまま鼻をすする。
(最近、改修工事が多いなあ……)
確かに、ここ数週間で業者の人を見かける回数が増えた気がする。百年以上の歴史を持つクイーンズ・ヘイブンは、要所要所で老朽化が進んでいる。廊下の軋みも、壁の剥がれも、見慣れた景色の一つだった。
けれど、これほど立て続けになると——なんとなく、落ち着かない気持ちになる。
もやっとした違和感を抱えながら立ち上がろうとして、ふと、玄関口の方が騒がしいことに気づいた。
娼婦たちが集まっている。何人かが声をひそめて話し込んでいて、その輪の中心に人影が見えた。
な、なんだろう……。
恐る恐る箒を抱えたまま、廊下の角から様子を窺う。
人の輪の中にいたのは、見慣れた白い軍服だった。青い髪が朝の光に淡く溶けて、その隣には制服を揃えた憲兵たちが数人、きちんと並んでいる。
——ヘンリーさんだった。




