27
深夜の洗濯室は、いつもより静かだった。
女子寮の廊下の突き当たりにあるその小部屋は、昼間は娼婦たちの話し声と蒸気で賑わっているのに、今は洗濯機の回る低い振動音だけが壁に染み込んでいる。窓の外は暗く、秋の夜気が古い木枠の隙間からじわりと忍び込んでいた。
私は洗濯機の前にしゃがみ込んで、その丸い窓をぼんやりと見つめていた。
ぐるぐると回る水の中で、服が重たそうに沈んでは浮かぶ。沈んでは、浮かぶ。
汚れが落ちているのかどうか、暗くてよくわからない。それでも早く、全部落ちてしまえばいいと思った。
「……はぁ」
気づいたら、深いため息が漏れていた。今夜のことは、考えないようにしていた。
膝を抱えて、洗濯機の振動を背中で感じながら目を閉じる。
すると。
「……?」
どこからか、誰かの気配を感じて瞼を上げた。
けど、誰もいない。
(気のせい……かな?)
自分の気のせいだと思ってもう一度瞼を閉じると——。
「——マティア?」
「ひんぎゃあああああっ‼︎」
静寂が、木っ端微塵に砕けた。
反射的に飛び上がって壁に背をつける。心臓が口から飛び出るかと思った。喉の奥からさらに声が出そうになった瞬間——柔らかな手のひらが、口をそっと塞いだ。
「っ——シッ、シッ! ごめんなさい、私よ!」
甘い香りが、鼻腔をくすぐった。
……あ。
知っている甘い香りだ。
恐る恐る目を開けると、金茶色の瞳がすぐそこにあった。アメリア姐さんが、心配そうに眉を下げて私の顔を覗き込んでいる。
夜中だというのに、その顔はいつも通り美しかった。柔らかな灯りに照らされた金色の髪が、肩のあたりで静かに揺れている。
(し、至近距離……っ)
口を塞がれたまま、顔が一気に熱くなる。心臓がまた別の意味でうるさくなって、目尻に変な涙が滲んだ。
やがて、周囲に人の気配がないことを確かめた姐さんがそっと手を離した。
「驚かせてごめんなさい。部屋にいなかったから、探しに来たの」
苦笑を浮かべてそう言いながら、姐さんはふと私の背後に目を向けた。
「こんな夜中に……洗濯?」
「っ——ふ、服を洗濯するの忘れちゃって……! そ、それよりアメリア姐さんこそ、なんでこんな時間に……」
ビクッと肩を震わせながら話を逸らす。姐さんがわずかに目を細めてこちらを見つめた。その視線が洗濯機の丸窓へ、それから私の顔へと戻ってくる。
何かを言いかけるような、一拍の間があった。
——けれど、姐さんはそれを飲み込むようにいつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「メモ、ちゃんと受け取ったわ。エリスのこと、追いかけてくれてありがとう」
「う、ううんっ……私は何も……! 当然のことをしただけで……!」
顔を真っ赤にして両手をぶんぶん振る。姐さんはくすっと笑って、首を小さく振った。
その時、ふとエリスの横顔が頭をよぎった。泣きながら膝を抱えていた小さな背中。花壇に向かって手を動かしていた、あの静かな後ろ姿。
「……あの、エリス…大丈夫だった?」
思わず眉を下げて尋ねると、姐さんの表情がほんの少しだけ曇った。
「今日は調子が悪くて、マダムが早めに家に帰したの。……まだ会えていないんだけど」
「そ、そう、なんだ……」
「仕事が終わったばかりだから」
姐さんの言葉を小さく繰り返すように、私は呟いた。
仕事。
その二文字が、胸の奥に静かに沈んでいく。視線が自然と床に落ちた。
「……マティア?」
姐さんが顔を覗き込んでくる。その距離があまりにも近くて、慌てて一歩後ろに引いた。
「だ、大丈夫っ……エリス、心配で」
「ふふ」
姐さんが小さく笑った。
「マティアも随分、お姉ちゃんが板についたわね」
——はぅっ!
ズキッと胸の奥で、何かが小さく悲鳴を上げた。
お、お姉ちゃん…。
そう、私はエリスのお姉ちゃんだ。姐さんにとって、ずっとそういう存在だ。
自分でもわかっているのに、あからさまに顔が歪んでしまったらしい。姐さんが「あら」と目を丸くした。
「ごめんなさい、変な言い方をしたわね。そういう意味じゃなくて……」
慌てた様子で姐さんが続ける。
「マティアが学園に入学した時のこと、覚えてる?」
「……へ?」
「怖くて私から離れられなくて、入学式の間ずっと私の袖を掴んでいたでしょう。やっと教室に預けられたと思ったら……」
「いや! あの……そ、それは……っ」
「泡を吹いて失神するんだもの」
「やめてぇ……!」
顔が燃えるように熱くなる。涙目になりながら首を振ると、姐さんはくすくすと笑い続けた。
「結局一年間、一緒に授業を受けたわね。先生も最初は困った顔をしていたけれど」
「覚えてるっ……覚えてるから言わないでぇ……っ」
「エリスが入学した時は逆に心配だったわ。あの子、全然泣かないんだもの。いい子すぎて」
「ぬぁあぁっ……!」
涙目で呻きながら聞いていると、姐さんの声が少しだけ遠くなった。懐かしむような、柔らかな色を帯びて。
「二人とも、こんなに大きくなって……」
笑みに、ほんのりと影が差した気がした。
それはほんの一瞬で——気のせいかもしれなかった。けれど私は、その表情を見逃せなかった。
「……アメリア姐さん」
「……ん?」
名前を呼ぶと、姐さんが顔を上げた。いつもの、穏やかな金茶色の瞳がこちらを見ている。
何を言おうとしていたのか、わからなくなった。
言いたいことは、ある。ずっとある。でも、いざその瞳を見ると——言葉が喉の奥で固まって、出てこない。
「……なん、でもない」
首を振った。
姐さんが一瞬だけ眉を下げた。それから——また、柔らかく笑った。
「そっか」
たった一言だった。なのに、その声がひどく温かくて、胸がぎゅっと締め付けられた。
姐さんの手が伸びてくる。頭に、そっと触れた。
「エリスのところに戻るわね。……おやすみ、マティア」
「あ、うん……おやすみなさい」
慌てて頷く。頬がまだ熱い。
洗濯室の扉が、静かに閉まった。
姐さんの足音が遠ざかっていく。廊下の向こうに消えて、やがて聞こえなくなった。
私はしばらく、その扉をただ見つめていた。
洗濯機が、変わらずぐるぐると回っている。服が、水の中で沈んでは浮かぶ。
さっき言えなかった言葉が、まだ喉の奥に引っかかっていた。
言えたとして、何が変わっただろう。
……何も、変わらなかったかも。
それでも。
(……姐さん)
心の中だけで、その名前を呼んだ。
洗濯機の低い振動と姐さんの残り香だけが、深夜の小部屋に響いていた。




