表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

41/113

27

 深夜の洗濯室は、いつもより静かだった。


 女子寮の廊下の突き当たりにあるその小部屋は、昼間は娼婦たちの話し声と蒸気で賑わっているのに、今は洗濯機の回る低い振動音だけが壁に染み込んでいる。窓の外は暗く、秋の夜気が古い木枠の隙間からじわりと忍び込んでいた。


 私は洗濯機の前にしゃがみ込んで、その丸い窓をぼんやりと見つめていた。


 ぐるぐると回る水の中で、服が重たそうに沈んでは浮かぶ。沈んでは、浮かぶ。


 汚れが落ちているのかどうか、暗くてよくわからない。それでも早く、全部落ちてしまえばいいと思った。


「……はぁ」


 気づいたら、深いため息が漏れていた。今夜のことは、考えないようにしていた。


 膝を抱えて、洗濯機の振動を背中で感じながら目を閉じる。


 すると。


「……?」


 どこからか、誰かの気配を感じて瞼を上げた。


 けど、誰もいない。


(気のせい……かな?)


 自分の気のせいだと思ってもう一度瞼を閉じると——。


「——マティア?」


「ひんぎゃあああああっ‼︎」


 静寂が、木っ端微塵に砕けた。


 反射的に飛び上がって壁に背をつける。心臓が口から飛び出るかと思った。喉の奥からさらに声が出そうになった瞬間——柔らかな手のひらが、口をそっと塞いだ。


「っ——シッ、シッ! ごめんなさい、私よ!」


 甘い香りが、鼻腔をくすぐった。


 ……あ。


 知っている甘い香りだ。


 恐る恐る目を開けると、金茶色の瞳がすぐそこにあった。アメリア姐さんが、心配そうに眉を下げて私の顔を覗き込んでいる。


 夜中だというのに、その顔はいつも通り美しかった。柔らかな灯りに照らされた金色の髪が、肩のあたりで静かに揺れている。


(し、至近距離……っ)


 口を塞がれたまま、顔が一気に熱くなる。心臓がまた別の意味でうるさくなって、目尻に変な涙が滲んだ。


 やがて、周囲に人の気配がないことを確かめた姐さんがそっと手を離した。


「驚かせてごめんなさい。部屋にいなかったから、探しに来たの」


 苦笑を浮かべてそう言いながら、姐さんはふと私の背後に目を向けた。


「こんな夜中に……洗濯?」


「っ——ふ、服を洗濯するの忘れちゃって……! そ、それよりアメリア姐さんこそ、なんでこんな時間に……」


 ビクッと肩を震わせながら話を逸らす。姐さんがわずかに目を細めてこちらを見つめた。その視線が洗濯機の丸窓へ、それから私の顔へと戻ってくる。


 何かを言いかけるような、一拍の間があった。


 ——けれど、姐さんはそれを飲み込むようにいつもの柔らかな笑みを浮かべた。


「メモ、ちゃんと受け取ったわ。エリスのこと、追いかけてくれてありがとう」


「う、ううんっ……私は何も……! 当然のことをしただけで……!」


 顔を真っ赤にして両手をぶんぶん振る。姐さんはくすっと笑って、首を小さく振った。


 その時、ふとエリスの横顔が頭をよぎった。泣きながら膝を抱えていた小さな背中。花壇に向かって手を動かしていた、あの静かな後ろ姿。


「……あの、エリス…大丈夫だった?」


 思わず眉を下げて尋ねると、姐さんの表情がほんの少しだけ曇った。


「今日は調子が悪くて、マダムが早めに家に帰したの。……まだ会えていないんだけど」


「そ、そう、なんだ……」


「仕事が終わったばかりだから」


 姐さんの言葉を小さく繰り返すように、私は呟いた。


 仕事。


 その二文字が、胸の奥に静かに沈んでいく。視線が自然と床に落ちた。


「……マティア?」


 姐さんが顔を覗き込んでくる。その距離があまりにも近くて、慌てて一歩後ろに引いた。


「だ、大丈夫っ……エリス、心配で」


「ふふ」


 姐さんが小さく笑った。


「マティアも随分、お姉ちゃんが板についたわね」

 

 ——はぅっ!

 

 ズキッと胸の奥で、何かが小さく悲鳴を上げた。


 お、お姉ちゃん…。


 そう、私はエリスのお姉ちゃんだ。姐さんにとって、ずっとそういう存在だ。


 自分でもわかっているのに、あからさまに顔が歪んでしまったらしい。姐さんが「あら」と目を丸くした。


「ごめんなさい、変な言い方をしたわね。そういう意味じゃなくて……」


 慌てた様子で姐さんが続ける。


「マティアが学園に入学した時のこと、覚えてる?」


「……へ?」


「怖くて私から離れられなくて、入学式の間ずっと私の袖を掴んでいたでしょう。やっと教室に預けられたと思ったら……」


「いや! あの……そ、それは……っ」


「泡を吹いて失神するんだもの」


「やめてぇ……!」


 顔が燃えるように熱くなる。涙目になりながら首を振ると、姐さんはくすくすと笑い続けた。


「結局一年間、一緒に授業を受けたわね。先生も最初は困った顔をしていたけれど」


「覚えてるっ……覚えてるから言わないでぇ……っ」


「エリスが入学した時は逆に心配だったわ。あの子、全然泣かないんだもの。いい子すぎて」


「ぬぁあぁっ……!」


 涙目で呻きながら聞いていると、姐さんの声が少しだけ遠くなった。懐かしむような、柔らかな色を帯びて。


「二人とも、こんなに大きくなって……」


 笑みに、ほんのりと影が差した気がした。


 それはほんの一瞬で——気のせいかもしれなかった。けれど私は、その表情を見逃せなかった。


「……アメリア姐さん」


「……ん?」


 名前を呼ぶと、姐さんが顔を上げた。いつもの、穏やかな金茶色の瞳がこちらを見ている。


 何を言おうとしていたのか、わからなくなった。


 言いたいことは、ある。ずっとある。でも、いざその瞳を見ると——言葉が喉の奥で固まって、出てこない。


「……なん、でもない」


 首を振った。


 姐さんが一瞬だけ眉を下げた。それから——また、柔らかく笑った。


「そっか」


 たった一言だった。なのに、その声がひどく温かくて、胸がぎゅっと締め付けられた。


 姐さんの手が伸びてくる。頭に、そっと触れた。


「エリスのところに戻るわね。……おやすみ、マティア」


「あ、うん……おやすみなさい」


 慌てて頷く。頬がまだ熱い。


 洗濯室の扉が、静かに閉まった。


 姐さんの足音が遠ざかっていく。廊下の向こうに消えて、やがて聞こえなくなった。


 私はしばらく、その扉をただ見つめていた。


 洗濯機が、変わらずぐるぐると回っている。服が、水の中で沈んでは浮かぶ。


 さっき言えなかった言葉が、まだ喉の奥に引っかかっていた。


 言えたとして、何が変わっただろう。


 ……何も、変わらなかったかも。


 それでも。


(……姐さん)


 心の中だけで、その名前を呼んだ。


 洗濯機の低い振動と姐さんの残り香だけが、深夜の小部屋に響いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ