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リッパーが現れてから、どれほどの時間が経っただろう。
騒ぎを聞きつけた憲兵たちが次々と路地裏に集まり、男を取り囲んで攻防を繰り広げている。数において、こちらは圧倒的に有利なはずだった。
それなのに——。
(なぜ、捕まらない……っ!)
苛立ちが喉を焼く。奥歯が、知らず知らずのうちに噛み締められていた。
リッパーの動きは、あの大柄な体格からは想像もつかないほど軽かった。切り立つ石壁を爪先で蹴り、憲兵の肩を足場にして宙へ舞う。冬物のコートを夜風に翻しながら、まるで路地の構造ごと頭に入っているかのように、一瞬の迷いもなく立ち回っていた。
だが、奇妙なことがあった。
彼が狙うのは、人ではない。制服だった。腕、肩、背中——まるで寸法を測るように正確に布だけを裂き、傷は最小限に留めている。本気で殺すつもりなら、そんな加減は不要のはずだ。
(……おちょくっているのか)
歯を噛む。それとも——別に理由があるのか。
考えを振り払って、腰の剣へ手を伸ばした。今は頭より体を動かす時だ。
一瞬だけ、リッパーの動きに隙が生じた。
「——リッパーっ!」
名を叫びながら地面を蹴る。渾身の力で踏み込んで間合いを詰め、剣を振り下ろした。
リッパーが短剣を翳す。
金属と金属がぶつかり合う衝撃が腕に走り、火花が夜の路地に散った。鍔迫り合いの一瞬——リッパーの体が僅かに沈んだ。刃は黒いコートの肩口を薄く裂いただけで、空を切る。重心を外して受け流す動きだった。
妙だった。大柄な体格の割に、攻撃に重さがない。まるで力ではなく、相手の動きを読んで先手を取ることだけで戦っているようだった。
「——っ」
舌打ちしながら体勢を立て直す。今の一撃で相手は後退した。その隙を見逃さず、制服を裂かれた憲兵たちが一斉に飛びかかる。
だが、リッパーは身を低くしながら踵を返した。壁と憲兵の間に生まれた僅かな隙間を縫うように走り抜け、さらに一人の背中を踏み台に跳躍する。黒いコートの裾が翻り、誰の手も届かないところを風が通り過ぎた。
「——逃げられる! 全員追えっ!」
声が路地に響く。
俺は全力で石畳を蹴った。それでも、相手は速い。視界の端でリッパーの黒い影がどんどん小さくなっていく。
追いつけない——そう確信しかけた瞬間。
前方でリッパーの巨体がぐらりと傾いて、石畳に転げ落ちた。
暗闇の中で誰かがその足にしがみついている。必死に、両手で。
小柄な人影だった。夜目の利かない俺には最初、誰なのかわからなかった。だが——薄闇の中で一瞬だけ輝いた深緑色の瞳を見て、全身の血が凍りついた。
****
「——捕まえたっ」
思わず、声が漏れた。
リッパーの退路を読んで待ち伏せていたのは正解だった。あの身軽な動きには一定のパターンがある——壁際の突起を踏み、低い体勢から一気に加速する。何度か繰り返しを観察すれば、次にどこへ出るかは計算できた。
ただ、本当に来るとは思っていなかった。
高揚感がじわりと全身に広がる。両手でリッパーの足首を掴んで石畳に引き倒した直後、石畳を蹴る脚だけが、体格に不釣り合いなほど鋭かった。
「暴れるな、くそっ」
力の差は歴然だ。体格が違いすぎる。それでも手を離す気はなかった。指に力を込め、蹴りを受けながら食いしばる。
こんな状況なのに、口角がずっと笑っていた。
「はっ……まさかマティアの真似事をすることになるとはな」
今日、何度も自分の足にしがみついていた彼女の姿が、脳裏を掠めた。あの時は心底うっとうしいと思っていたのに——それを参考にする羽目になるとは、人生とは本当に予測がつかない。喉の奥で笑いが漏れた。
——その瞬間だった。
リッパーが、動きを止めた。
「……?」
一拍だけの静止だった。だが確かに、何かに気づいたように動きが凝固した。
訝しみながらも、その一瞬が思わぬ余裕を与えてくれた。僅かに冷静さが戻って——掴んでいる足首に、違和感を覚えた。
硬い。靴底が、異様に硬い。
そして、厚い。
「——っ、おい、お前——」
言葉が終わる前に、踵が額を捉えた。
ごっ、という音よりも先に、痛みが来た。視界が弾ける。何が起きたか理解する前に、石畳が目の前にあった。
指の力が、抜けた。
石畳が頬に当たる感触がする。起き上がろうとしたが、頭が揺れて視界が定まらない。地面を押さえながら上体を起こすと、リッパーが体勢を立て直して走り出しているのが見えた。
(——まずい)
頭の痛みを無視して、コートのポケットに手を突っ込む。あらかじめ仕込んでいたそれを掴んで、上体を起こしながら、まだ遠くない背中へ力の限り投じた。
——ぱきっ。
小さな破砕音が夜の路地に弾けた。
コートに命中した小瓶が割れて、中の液体が黒い布地に広がっていく。リッパーが一瞬足を止めて振り返った——だがすぐに判断したのか、暗闇の中に姿を消した。
「オズワルドくんっ!」
石畳を踏む音が駆け寄ってきて、頭上から声が降る。ヘンリーだった。それに続いて憲兵たちが足音を立てながら走り抜けていく。
おそらく、捕まらないだろう。そんな確信が静かにあった。
「無茶をするな……っ、血が出ている。病院へ——」
「かすり傷だ」
立ち上がろうとすると、ヘンリーの手が肩を押さえてきた。白いハンカチを取り出して額に当てる。布がじわりと赤く滲んだ。
だが、僕の視線は暗闇に消えたリッパーの背中へ、ずっと向けられたままだった。
(……あの靴)
厚底だった。異様なまでに厚い。感触からして、二十センチ近くはあったかもしれない。
あれほどの厚さで、あれほど身軽に動けるものか——否、動けていた。それは確かだ。だとすれば、あの靴は動きを妨げるためではなく、別の目的のためにある。
考えられる理由は、一つしかない。
(身長を、偽っていた)
今夜の目撃情報はすべて「大柄な長身の男」で一致していた。だが、靴の中身を差し引けば——本来の体格は、もっと小さいことになる。
チャールズ・クロウの身体的特徴を思い返す。確か書類には、長身と記載があった。
(——ならば、あの靴の必要がない)
ヘンリーの声が、遠くなる。頭の痛みも、遠くなる。
代わりに一つの輪郭が、静かに、確かに、僕の頭の中で形を結び始めていた。
(犯人は——別にいる)
その確信が、血に滲むハンカチよりもずっと鮮明に、夜の路地裏に浮かんでいた。




