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「ヘンリー副隊長。全員、持ち場につきました」
陽が完全に落ちた夜の色街は、昼間とはまるで別の顔をしていた。
石畳の上に街灯の光がぼんやりと滲み、酒場の窓から笑い声と灯りが漏れ出ている。娼館の入り口には柔らかな光が灯って、夜の客を迎える準備が整っていた。秋の夜風が冷たく、吐く息がわずかに白くなる。
駆け寄ってきた憲兵の報告に、俺は静かに頷いた。
リッパーの犯行はいつも、こうした人の目が届きにくい闇の中で起きる。住民が外に出ていないか確認しながら、今夜は路地裏を中心に人員を配置した。北の区画と西の路地——前回の被害があった場所を重点的に。
けれど、果たして今夜も来るのかどうか。
来てくれるなら、今日こそ捕まえる。来なければ——また被害者が出るのを待つしかない。その事実が、いつも俺の胸に重く引っかかっていた。
「ご苦労。持ち場についてくれ」
「はっ。——ただ、副隊長。その前に一つご報告が」
敬礼したまま、憲兵が続けた。
「不審人物を発見しまして。なんでも『僕は関係者だ』と言い張って、巡回についてこようとしている青年が」
「……嫌な予感がする」
思わず眉間を押さえた。
夕刻、クイーンズ・ヘイブンの前で遭遇したあの青年の顔が、鮮明に脳裏をよぎる。整った顔立ちと、あの傲慢な目つき。まだ十四歳だというのに、すでに妙な貫禄があった。
——やはり、あの場で何とかしておくべきだったか。
「案内してくれ」
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「この僕を誰だと思っている。こんな扱いを受ける立場じゃないぞ」
「……ねぇ、殴っていいかしら」
「やめておけ、職務中だぞ。——非番の時にこっそりしろ」
憲兵たちの巡回についていったところを見つかり、今は路地裏の奥で複数人に囲まれている。質問に答えただけなのに女性兵がつかみかかってきそうな勢いで睨んでくるし、後ろの男性兵が彼女の肩を押さえながら囁いた言葉は、しっかりと僕の耳に届いていた。
解せない。僕が何をした。
「——やっぱり、君か」
路地の奥から疲れた声が聞こえて振り返る。
街灯を背にした青い髪の男——ヘンリー・カルヴァートが、苦笑を浮かべながら歩いてきた。腰に手を当て、小さく息をついて首を振る。
「はぁ……言ったよね? 情報を提供する代わりに、巡回には絶対参加しないでって」
「僕が約束を守るとでも?」
「そうだね。信じた俺がバカだったね」
今度は頭を抱えた。眉間の皺をつまんで、本気で苦悩している。その様子は見ものだが、僕はこの場所にいつまでも留まるつもりはなかった。
「諦めて参加させろ。邪魔はしないし、自分の身は自分で守れる」
「自分で守れるって……君は無能力者だろう」
ヘンリーが息をついて、厳しい目でこちらを見据えた。
「万が一のことがあっても、俺たちは君を守れる保証はない。ロード代理の君を危険に晒すわけにはいかないんだ」
真摯な声だった。
——ロード代理。
その言葉に、反射的に眉が動く。
だが、それを嘲笑うように鼻で笑った。その程度で引き下がると思われているなら、非常に不愉快だ。
「ロード代理、か。よく知っているじゃないか」
口角を上げてから、すぐに笑みを消す。まっすぐに相手を見据えた。
「——なら、僕の言葉はロードの言葉と同義だ。それに背くということは、それ相応の代償を払うことになる。わかるな」
周囲の空気が、一瞬で変わった。
憲兵たちが固唾を呑む。喉が上下に動くのが見えた。
だが、ヘンリーだけは動じなかった。冷静な青い目がまっすぐこちらを見ている。しばらくの沈黙の後、彼は小さく息をついた。
「……わかった。同行を認める」
「副隊長っ」
「ただし」
異議を上げようとした憲兵を手で制して、彼は続けた。
「俺のそばを離れないこと。それを守れないなら、ロードの意に反することになっても君には帰ってもらう。いいね?」
有無を言わさない声だった。
異議を申し立てようと口を開きかけたが、やめた。言ったところで時間が無駄になる——僕は少し納得がいかないように顔を背けた。
「……わかった」
「よし。じゃあついておいで」
「ちっ」
「舌打ちしないっ」
小さくしたつもりが聞こえていたらしい。地獄耳め。
ヘンリーは僕の不機嫌を意に介さず踵を返して歩き始める。後ろに続いた憲兵の一人が、声を潜めて耳打ちした。
「……本当によかったのですか。あの子をついてこさせるなんて」
「何言っても帰らないだろうし。今日初めて会ったけど、めんどくさいのはわかったから」
「聞こえてるぞ」
じとりと睨むと、苦笑が返ってきた。
石畳を踏む音が一定のリズムで続く中、僕はさりげなく周囲に視線を走らせた。
路地の入り口。隣の区画へ続く小道。遠くに見える街灯の配置と、その間に生まれる影の深さ。
——おかしい。
「一つ、聞いてもいいか」
「何かな」
ヘンリーが少し振り返る。
「どうして東と南の区画に兵を集中させている?」
その言葉に、彼の足がわずかに止まった。他の憲兵の表情にも、一瞬だけ動揺が走る。
ヘンリーは確かにアメリアたちに「北の区画を中心に巡回する」と話していた。僕も耳にしていた言葉だ。なのに実際に来てみると、北の区画の巡回が薄すぎる。街灯の位置と影の入り方から人の動きを読むのは得意だ———そこから答えは引き出せる。
憲兵たちは罰が悪そうに視線を逸らした。嘘をつけないと悟ったのか、ヘンリーが口を開こうとした——その瞬間。
「ヘンリー副隊長っ!」
路地の向こうから、若い憲兵が走ってきた。息を切らしながら、ヘンリーの前に立つ。
「はぁ……はぁ……東の区画で、女性が——殺されました」
場の空気が凍りついた。
誰かの息を呑む音が、静かな路地に響く。
「なぜだっ」
ヘンリーの声が低くなった。普段の穏やかさが、一瞬で剥がれる。
「そこに人員を集めたのに、なぜ被害が出たんだ」
「わ、わかりませんっ……憲兵の隙をついて——ただ、後を追っています。リッパーはまだ現場付近にいる可能性がっ」
「くそっ……!」
ヘンリーの足が動いた。それに続いて憲兵たちが走り出し、僕も石畳を蹴った。
走りながら、僕は頭の中で一つの事実を静かに繋ぎ合わせていた。
ヘンリーが伝えた巡回先。東と南への兵の集中。そして今夜の被害場所。
リッパーは、北の区画に憲兵が集中すると思って、東の区画で犯行に及んだ。
——つまり、犯人はヘンリーの話を聞いていたことになる。
その結論は、まだ仮説に過ぎない。だが、確信に近かった。
夜風が頬を叩く。石畳を蹴る音が、冷たい空気に散っていった。




