表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

36/113

23-2

 さまよっていた目が、止まった。


 誘った? いつ?


 冷や汗がじわりと滲んで、クラクラと目の前が揺れる感覚がある。それでも彼は構わずに続けた。


「僕に身請けされたくないなら、一緒に参加すればいい。そうすれば監視の目もある」


 相変わらず傲慢な言い方に頭がショートしそうになる。


 なんでこの人は、こんなに私をそばに置こうとするのだろう。理解できなくて、ただ困惑した言葉だけが頭を回り続ける。


「い、いや……わ、私は……今夜は……」


 必死に頭を回転させながら、視線があちこちを泳いだ。


 今夜は一緒にいけない——だって、どうしても。


 ちらっと衣裳ダンスの隙間に目を向けてしまった。


 ——それが、仇となった。


「? 何を見ている」


「ほぁあああっ!」


 オズが振り返るものだから、思わず発狂した。床下から「マティア!」と叱る姐さんたちの声が聞こえてきたが、なりふり構っていられない。


 体が咄嗟に動いた。両手で彼の頬を掴んで、こちらへ引き戻す。驚いた深緑色の瞳と、至近距離で目が合った。


「あ、あ、あのっ! 一緒に行っても絶対役に立てないから! 怖いだけで足手まといになるだけだから!」


 早口で捲し立てながら必死に説得する。きっと今の自分は血走った目をしているんだろうと思いながらも、もうどうでもよかった。ただ彼に頷いてほしかった。


 だが、オズは首を縦に振るどころか——固まっていた。


「………」


「……あ、あれ? オズ?」


 我に帰って、彼の様子を確かめる。目を見開いたまま、静止している。頬を掴んでいる指先が、彼の耳のあたりにわずかに触れていた。そこだけ、少し熱いような気がした。


 なんで固まっているんだろう。いつもなら皮肉の一つでも返ってくるのに。


 たった数秒の沈黙だった。けれど不思議と、それがひどく長く感じられた。


「——マティア」


 先に沈黙を破ったのは、オズの方だった。その声がほんの少しだけ、いつもより低い気がして——思わず瞬きをした瞬間。


「……マティアちゃん? 誰かおるのかい?」


「——ひっ!」


 扉の向こうから、聞き覚えのある声が響いた。女子寮の寮母だ。


 顔が一瞬で真っ青になった。オズを掴んでいた両手が、ぱっと離れる。目尻に涙が滲んで、口が震えた。


「……居そうだねー」


 核心をついた寮母の声に、心の中で断末魔が上がる。どんな怪談よりも今この瞬間の方が恐ろしかった。


「お、オズ……っ、窓からっ——あれ?」


 後ろを振り返る。


 そこには、もう誰もいなかった。


 窓だけが静かに開け放たれて、秋の夜風がカーテンを揺らしている。冷たい空気が頬を撫でていく。


 寮母が確認のために扉を開けて部屋に入ってきても、私はしばらく窓を見つめたまま、ただ立ち尽くしていた。


****


 女子寮を出てから、どれほど時間が経ったのだろう。


 空を見上げると、橙色の夕暮れはもう消えかけていた。夜が落ちる手前の、藍色と黒が溶け合う曖昧な色が、学園都市の輪郭を静かに塗り替えていく。陽が沈んだせいか、秋の夜風が肌を刺すように冷たかった。


 石畳を踏む足音を耳の奥で聞きながら、ヘンリーたちがいるであろう方角へ一人で向かう。


 ちらりと、立ち並ぶ娼館に目を向けた。


 年季の入ったクイーンズ・ヘイブンは、隣の新しい建物と並ぶとひどく古く見える。それでも——あの建物には、他の娼館にはない重さがあると思う。気のせいかもしれないが。


「………」


 先ほどの光景が、脳裏をよぎった。


 至近距離で見た真紅色の瞳。頬に触れた温かい手。


 その瞬間だけ、重なった——別の誰かの顔が。


「……くそっ」


 誰に向けているのかもわからない悪態を、夜の空気に吐き出した。


 ただ一つ確かなのは——耳が熱いのは、夜風のせいだということにしておきたかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ