23-2
さまよっていた目が、止まった。
誘った? いつ?
冷や汗がじわりと滲んで、クラクラと目の前が揺れる感覚がある。それでも彼は構わずに続けた。
「僕に身請けされたくないなら、一緒に参加すればいい。そうすれば監視の目もある」
相変わらず傲慢な言い方に頭がショートしそうになる。
なんでこの人は、こんなに私をそばに置こうとするのだろう。理解できなくて、ただ困惑した言葉だけが頭を回り続ける。
「い、いや……わ、私は……今夜は……」
必死に頭を回転させながら、視線があちこちを泳いだ。
今夜は一緒にいけない——だって、どうしても。
ちらっと衣裳ダンスの隙間に目を向けてしまった。
——それが、仇となった。
「? 何を見ている」
「ほぁあああっ!」
オズが振り返るものだから、思わず発狂した。床下から「マティア!」と叱る姐さんたちの声が聞こえてきたが、なりふり構っていられない。
体が咄嗟に動いた。両手で彼の頬を掴んで、こちらへ引き戻す。驚いた深緑色の瞳と、至近距離で目が合った。
「あ、あ、あのっ! 一緒に行っても絶対役に立てないから! 怖いだけで足手まといになるだけだから!」
早口で捲し立てながら必死に説得する。きっと今の自分は血走った目をしているんだろうと思いながらも、もうどうでもよかった。ただ彼に頷いてほしかった。
だが、オズは首を縦に振るどころか——固まっていた。
「………」
「……あ、あれ? オズ?」
我に帰って、彼の様子を確かめる。目を見開いたまま、静止している。頬を掴んでいる指先が、彼の耳のあたりにわずかに触れていた。そこだけ、少し熱いような気がした。
なんで固まっているんだろう。いつもなら皮肉の一つでも返ってくるのに。
たった数秒の沈黙だった。けれど不思議と、それがひどく長く感じられた。
「——マティア」
先に沈黙を破ったのは、オズの方だった。その声がほんの少しだけ、いつもより低い気がして——思わず瞬きをした瞬間。
「……マティアちゃん? 誰かおるのかい?」
「——ひっ!」
扉の向こうから、聞き覚えのある声が響いた。女子寮の寮母だ。
顔が一瞬で真っ青になった。オズを掴んでいた両手が、ぱっと離れる。目尻に涙が滲んで、口が震えた。
「……居そうだねー」
核心をついた寮母の声に、心の中で断末魔が上がる。どんな怪談よりも今この瞬間の方が恐ろしかった。
「お、オズ……っ、窓からっ——あれ?」
後ろを振り返る。
そこには、もう誰もいなかった。
窓だけが静かに開け放たれて、秋の夜風がカーテンを揺らしている。冷たい空気が頬を撫でていく。
寮母が確認のために扉を開けて部屋に入ってきても、私はしばらく窓を見つめたまま、ただ立ち尽くしていた。
****
女子寮を出てから、どれほど時間が経ったのだろう。
空を見上げると、橙色の夕暮れはもう消えかけていた。夜が落ちる手前の、藍色と黒が溶け合う曖昧な色が、学園都市の輪郭を静かに塗り替えていく。陽が沈んだせいか、秋の夜風が肌を刺すように冷たかった。
石畳を踏む足音を耳の奥で聞きながら、ヘンリーたちがいるであろう方角へ一人で向かう。
ちらりと、立ち並ぶ娼館に目を向けた。
年季の入ったクイーンズ・ヘイブンは、隣の新しい建物と並ぶとひどく古く見える。それでも——あの建物には、他の娼館にはない重さがあると思う。気のせいかもしれないが。
「………」
先ほどの光景が、脳裏をよぎった。
至近距離で見た真紅色の瞳。頬に触れた温かい手。
その瞬間だけ、重なった——別の誰かの顔が。
「……くそっ」
誰に向けているのかもわからない悪態を、夜の空気に吐き出した。
ただ一つ確かなのは——耳が熱いのは、夜風のせいだということにしておきたかった。




