20-1
クイーンズ・ヘイブンの中庭へ入り込む時、私の胸には一つの祈りだけがあった。
マダムに見つかりませんように——と。
建物に三方を囲まれた石畳の中庭は、日当たりが悪い分だけ空気が静かだった。石の継ぎ目に苔がびっしりと根を張り、秋の光が届かない場所には緑色の湿気がじっとりと漂っている。ここは客のために設えられた庭で、立ち入りが許されているのは庭師か、客か、管理するマダムだけだ。
つまり私は今、完全にアウトな場所にいる。
冷や汗が止まらない。震える手でサイモンお兄ちゃんとロビンお姉ちゃんの人形を抱き直しながら、茂みの影を縫うように移動した。マダムの鋭い栗色の瞳に見つかることを想像するだけで、足の裏が冷たくなる。
それでも、足は止まらなかった。
エリスがどこにいるか、大体の見当はついていた。
中庭の隅にある物置小屋。その裏手に回ると——やっぱり、いた。
花壇の前で膝を抱えてしゃっくりを上げながら泣く小さな背中。枯れた花壇に向かって、まるで話しかけるでもなくただ蹲っている。
少しだけ躊躇ってから、私はそっとその背中に近づいた。
「え、エリス」
「……! マティアお姉ちゃん」
涙で濡れた顔が振り上がり、驚きに目が見開かれる。けれど次の瞬間、彼女は拗ねたようにそっぽを向いて、また膝に顔を埋めてしまった。
「……何? 私、謝らないからね」
「う、うんっ。わかってるよ……」
謝らせに来たと思われたらしい。それを否定しながら、私は内心で少しだけほっとしていた。いつもより全然しっかりしていないエリスが、年相応の顔をして泣いている。なんだかんだ言って、それが私には安心だった。だって彼女はいつも大人のふりをしすぎているから——いつか本当に子供でいることを忘れてしまいそうで、ずっと心配だったから。
「……隣、座ってもいい?」
返事はなかった。それを肯定と受け取って、私は静かに彼女の隣へ腰を下ろした。冷たい石畳の感触がスカートを通して伝わってくる。人形を抱え直して、黙ってエリスと同じ方向——枯れた花壇を見つめた。
「は、はは……やっぱり、お花枯れちゃったね……昔は庭師さんのおかげで咲いてたんだけど」
「……うん。亡くなっちゃったもんね。殺されて」
「あぅっ」
場を和ませようとして、見事に外した。私のばかぁ——頭の中で自分をポカポカ叩きながら涙目になっていると、エリスが膝に顔を埋めたまま、小さく呟いた。
「……私、悪くないもん」
「へっ?」
「だって、あいつ急に現れてお母さんをとっていくんだもん。お母さんは私とマティアお姉ちゃんのものなのに……大っ嫌い」
震える声だった。膝を抱えた小さな手が、スカートの布をきゅっと握りしめている。その姿に、胸の奥がズキリと痛んだ。
「……そっか。姐さんがその人ばっかり見ちゃうのが、不安なんだね」
「——っ」
思わず口から出た言葉だった。エリスの肩がビクリと震えて、それだけで十分だった。
彼女は何も答えず、ただ小さく縮こまる。
「あいつが来てから、お母さん変なの。あいつを見ると嬉しそうに笑って……あんな顔、私に向けてくれたことないもん」
「うっ……そ、そうだね……びっくりするよね……」
また謎のダメージが入った。胸の奥がぎゅっと痛む感覚があったけれど、今はそれどころではないので首を振る。
「……お母さん、私を置いて行っちゃうのかな?」
「! そ、それは絶対ないよ!」
思わず声を張り上げてしまって、慌てて口を押さえる。あたりを素早く見回すと、人の気配がないことに密かに安堵した。
「……アメリア姐さんがエリスを置いていくわけない。姐さんはエリスを誰よりも大切に思ってるから……ヘンリーさんに身請けされても、それは絶対変わらないよ」
「……本当?」
涙目の瞳がこちらを見つめる。その不安げな目が胸に刺さって、私は何度も頷いた。
「うんうん!」
「……お母さんに恋してるお姉ちゃんが言うと、説得力があるね」
「ぐぁっ……っ、し、知ってたの?」
何気なく放たれた一言に、心臓が止まった。声を絞り尽くすように尋ねると、涙をやっと止めたエリスが、弱々しく微笑んだ。
「見てたらわかるよ。わかってないのお母さんだけじゃない?」
「うぉぁぁぁっ……!」
衝動的に額を石畳に擦りつけて悶える。エリスが知っているなら、娼館のみんなにもとっくに気づかれている。顔に出やすい自分の性格が、心の底から憎かった。
「……だから、マティアお姉ちゃん、家を出て行ったの?」
「——え?」
突然の問いに顔を上げると、エリスの濡れた瞳がまっすぐこちらを見つめていた。
「前まで一緒に暮らしてたのに、なんで急に女子寮に移ったの……苗字まで変えて」
「う……そ、それは……」
言葉が詰まった。
言った方がいいのはわかっている。でも——私はただ首を振ることしかできなかった。
「……ち、違うよ。二人が嫌だからじゃないから……言えないけど、それだけは信じてほしい……っ」
ぎこちない笑みを浮かべて、精一杯の言葉を絞り出す。
エリスはしばらく納得のいかない顔でこちらを見ていた。けれど——次の瞬間、小さな両腕が私に飛びついてきた。
「え、えぇっ、エリス⁉︎」
「またいつでも戻ってきていいからね。……お姉ちゃんのこと、待ってるから」
その言葉に息を呑んだ。
じわりと目が熱くなって、鼻の奥がつんとする。恐る恐る彼女の体に腕を回すと——その小さな温かさが、思ったよりずっと頼もしかった。
「……ありがとう、エリス」
どれくらいそうしていただろう。ゆっくり体が離れると、二人でそっと笑みをこぼした。さっきまで泣いていたくせに、エリスの目にはもう涙がなかった。
「へへっ……そろそろ帰ろうか。姐さんも心配してるし、マダムに見つかったら大変だから」
「……うん。でも、ちょっと待って」
エリスが枯れた花壇に目を向けた。
「手入れしてから帰る。お母さんと一緒に植えたものだから……このままにしておけないの」
静かな声だった。私はその横顔を見て、胸の奥がざわりとした。
「……う、うん。でも、なるべく早く戻ってきてね。ほら、最近疲れてるでしょ?」
一度口に出したら、言葉が次々と溢れた。
「その……よくぼーっとするって言ってたし、みんな心配してるよ」
「わかってるよ。もう……」
エリスが呆れたように小さく息を吐いて、手を振った。
「すぐ行くから。お姉ちゃんこそ、気をつけて帰ってね」
苦笑交じりの声。さっきまでの幼い表情はもうそこになくて、いつものしっかり者の彼女が戻ってきていた。その変わり身の早さが、少しだけ胸をちくりとさせる。
「うん……またね、エリス」
私は控えめな笑みを返して、手を振った。
石畳の冷たさを足の裏に感じながら、そっと中庭を後にする。後ろで花壇に向き直るエリスの気配がした。足が一瞬止まりかけたけれど——そのまま、アメリア姐さんのいる場所へと歩き出した。




