19
走り去っていくエリスとそれを追いかけるマティアを見送ると俺とアメリアが二人っきりになった。
クイーンズ・ヘイブンの傾きかけた秋の日差しが石畳を橙に染めている。
「……本当によかったのかい。エリスちゃん、泣いてたけど」
「多分、大丈夫。……マティアが後を追ってくれてるから」
アメリアが苦笑を浮かべた。
横顔はいつも通り穏やかだったが、どこかに薄い膜が張られているような気がして、俺はうまく言葉を継げなかった。彼女の笑顔に心を揺さぶられることには慣れてきた。けれど、こういう——何かを隠しているような笑みには、まだ慣れない。
黙り込んだ俺に気づいたのか、アメリアが少し焦ったように眉を下げてこちらを窺う。それでも彼女は何も言わず、ただいつもの嫋やかな笑みを作ってみせた。
「……そういえば、今日はどうしてここに? 何かお知らせかしら」
「ああ、そうなんだ」
危うく忘れるところだった。こほんと咳払いをひとつして、本来の用件を引き寄せる。
「今夜の巡回先が決まってね。前に被害のあった西の路地に加えて、北の区画も回るつもりなんだ」
上官から下された今日の行程を手短に伝える。あらかじめどこを巡回するか娼婦たちに知らせておくこと——それがこの地区を少しでも安心させるための、俺なりのやり方だった。
「だから夜の不要不急の外出は控えてほしくて、直接来たんだ」
「……わかったわ」
アメリアはひとつ頷くと、少し考えるように視線を落とした。そして——すっと身を寄せて、耳元で小さく囁いてきた。
「巡回先のことは、マダムと私だけで預かっておくわね」
「え?」
「あの子たち、噂を広めるのが好きだから」
耳に触れそうなほど近い距離で、彼女の吐息がかかる。心臓が跳ね上がりそうになって、俺はかろうじて咳払いで誤魔化した。
「……情報がリッパーの耳に届いたら困るでしょう。なるべく、外には出さないように気をつけるわ」
「あ……はい、お願いします」
思わず背筋が伸びて、かしこまった返事が口をついて出る。初めて彼女に一目惚れしたあの日みたいだと自分でも思って、情けなくなった。顔に熱が集まってくるのがわかる。
そんな俺を見て、アメリアが「あら」と言って口元を片手で隠した。肩が小さく揺れて、くすくすと笑い声が漏れる。
——ずるい。
俺は彼女より二歳年下だ。それを差し引いても、彼女を前にするとどうにも余裕というものがなくなる。
「ふふ、忙しいのにわざわざありがとう。じゃあ、お店の準備があるから……」
「っ、アメリアさん」
踵を返そうとした彼女の腕を、気づけば掴んでいた。
彼女が金色の髪を揺らして振り返る。見開かれた金茶色の瞳が、まっすぐ俺を捉えた。
「……ヘンリーさん?」
どこか戸惑ったような声。それでも今日は言わなければ、と思っていた。巡回のことを伝えに来たのと同じくらい——いや、それ以上に、これを伝えるために来たのだから。
俺は一度息を吸い、彼女の瞳をまっすぐ見据えた。
「アメリアさん。俺と……結婚しよう」
「——ぇ」
彼女の目が、わずかに揺れた。
押し黙ったまま動かない彼女を見ていると、堪えきれなくなって言葉が続いた。
「この地区は危険だ。今のところ被害者は男性だけだけど、女性が狙われる前に手を打ちたい。エリスちゃんも、マティアちゃんも——こんな場所に居続けさせたくないんだ」
言葉を切って、握っていた腕から手を滑らせ、今度はそっと彼女の手を包む。指先が、少し冷たかった。
「だから……一緒に暮らそう。一刻も早く、みんなを安全な場所に連れていきたい」
「……ヘンリーさん」
名前を呼ぶ声は、柔らかかった。けれど、眉がそっと下がるのを見た瞬間、俺の胸に重いものが落ちてくる予感がした。
「ごめんなさい。あの子たちのことを思えば……早く決めた方がいいって、わかってるの」
「なら——」
「でも」
静かに、しかし迷いなく、彼女は続けた。
「クイーンズ・ヘイブンのみんなも、私の家族なの。娼館が危機のときに、一人だけ逃げ出すことはできないわ」
その言葉は、穏やかな声で、ていねいに、俺の胸に突き刺さった。
わかっている。彼女にとってこの娼館は、ただの職場じゃない。過去の自分が救われた場所で、今の自分を作ってくれた場所だ。だからこそ、手放せない。
頭ではわかっている。
「……そうだよな。俺の言い方が悪かった」
無理に笑みを作る。情けない笑顔だと自分でもわかって、俺は視線をずらした。彼女の顔がさらに曇る気配がして、かえって申し訳なかった。
「……ヘンリーさん、あのね」
躊躇いがちな声が、俺を呼ぶ。
顔が上げられないまま石畳を見つめていると、彼女がそっと言葉を続けようとした——その瞬間。
「アメリア〜! マダムが呼んでるわよ!」
別の娼婦の声が、裏口の向こうから飛んできた。
アメリアの肩が、ほんの少し跳ねた。繋いでいた手が、そっと離れる。
「……ごめんなさい、行かないと」
振り返り際の笑顔は、いつも通りの綺麗なものだった。けれど、なぜかそれが今日はひどく遠く感じた。
「夜の巡回、気をつけてね。ヘンリーさん」
藍色のドレスが翻り、彼女の姿が娼館の中に消える。閉じられた扉を、俺はしばらく見つめていた。
胸の奥で、何かがじくじくと燃え続けている。焦燥とも、切なさとも、名前のつけにくい感情だった。
「……はぁ」
ため息のひとつもつかないと、やってられない。
それにしても、さっき彼女が口にした「やっぱり」の先の言葉が気になる……。
考えたくない答えが頭をよぎって、俺は強く首を振った。
考えたって、答えは出ない。
今は仕事に戻らなければ。他の娼館に知らせに行っている憲兵たちを招集して、巡回の指示を出さないと——。
気を取り直して振り返った。
——その瞬間、目の前に人影がいた。
「うぉっ!」
「どこへいく」
反射的に飛び退く。落ち着いて目を凝らすと、偉そうな口調と整った顔立ちを持つ青年
が腕を組んで仁王立ちしていた。
しばらく間を置いて、思い出す。
「君は……さっきの」




