18
「ね、ねぇ……やっぱり帰ろうよ。もうすぐ日が沈むよ」
「だからクイーンズ・ヘイブンに戻ってきたんだろう」
「そういう意味じゃなくてっ!」
西の空が橙色に溶け始めていた。
建物の輪郭が夕闇に滲み、街路の石畳に長い影が伸びる。ホーソーン地区の一角に佇む『クイーンズ・ヘイブン』は、昼間の静けさとは打って変わって、少しずつ夜の顔をまとい始めていた。玄関口の看板に灯がともり、柔らかな光が石畳に滲む。もうすぐ開店の時間だ。
ああ、もうすぐ着いてしまう……。
娼館が視界に近づくたびに、足が鉛になっていく気がした。
オズからヘンリーさんが姐さんを探して娼館へ向かったと聞いた。今頃まだ中にいるだろう。ということは——
……あそこにヘンリーさんが。きっと今頃、アメリア姐さんと……っ。
頭の奥がじわじわと冷えていく感覚を覚えて、視界が揺れかけた。
や、やっぱり無理だ。いけないっ。
「お、お願いします! 今日だけは帰って……っ!」
咄嗟に前を歩くオズの足にしがみつく。彼はちらりと下を見下ろしたきり、特に驚く様子もなく、私ごと足をずるずると引きずり始めた。もうすっかり慣れたらしい。
「やめろ。重い。離せ」
「うわーん! 引きずらないでぇっ!」
冷たい石畳が頬に当たりそうになりながら、それでも手を離せなかった。夕暮れの冷たい空気が頬を刺す。鼻の奥がじんと熱くなって、目尻に涙が滲んだ。
「ひーん……えぐっ……怖いよぉ」
「大丈夫だ。僕がついてる」
「だからだよぉ」
不安の元凶が何かを言っている。
ぐすぐすと鼻を啜りながら彼の足にしがみついていると、ふと——何かが視界の端を掠めた。
「……おい。なんだ、あれは」
オズの足が、不意に止まった。
訝しげに眉を寄せた彼の視線を追うように、私もゆっくりと顔を上げる。
——その瞬間、涙が勝手に引っ込んだ。
「……エリス?」
娼館の入り口近く。橙色の夕光の中に、見慣れた小さな人影があった。
その茶色の髪をまとめたサイドテールが秋風に揺れ、金茶色の瞳を鋭く釣り上げたエリスが、誰かに向かって声を上げている——どちらかというと、一方的に怒鳴りつけているように見えた。
その怒鳴られている相手の姿を認識した瞬間、心臓が凍りついた。
白い軍服。夕暮れの光に溶けるような青い髪——ヘンリー・カルヴァートだった。
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「エリス、お願いだ。少しだけ……知らせたいことがあるから」
「知らない! 帰って!」
気づいたら、オズを置いてエリスに駆け寄っていた。
自分と同じように——いや、もしかしたらそれ以上に、彼をよく思っていないエリス。だけど、ここまで激しく反抗する姿は初めて見た。それだけで、足が勝手に動いていた。
「え、エリス? ど、どうしたの?」
「マティアちゃん……」
ヘンリーさんが私の存在に気づいて、助けを求めるようにこちらへ視線を向けてくる。その顔をまともに見られなくて、咄嗟に俯いた。
代わりにエリスの後ろに回り込むようにそっと肩に手を置いて、その小さな横顔を覗き込む。
「な、何かあった……?」
なるべく穏やかな声を出そうとしたのに、震えてしまった。
次の瞬間、エリスが鬼の形相でこちらを振り返る。
「ひぇっ!」
思わず小さな悲鳴が漏れた。
「どうもこうもないよ! 私が子供だからって、何も教えてくれないの!」
エリスの怒りの矛先がこちらに向いて、ビクッと体が震える。思わず涙目になった。
ヘンリーさんはというと、困り果てたように私たちを交互に見つめ、弱ったように眉を下げた。
「誤解だよ。君たちにも関係する大事な話だから、ちゃんと話すつもりだ。ただ、まずは大人に……」
「うそ! 本当はお母さんに会いに来たくせに!」
エリスの核心をついた言葉に、ヘンリーさんが目を見開いて言葉を詰まらせる。
私にもわかった——報告だけのためにここへ来たわけじゃないことが。だからこそ、胸の奥がずきりと痛んで、エリスの肩に置いた手に自然と力がこもった。
「——なんの騒ぎ?」
そのとき、娼館の入り口から凛とした声が張り詰めた空気を断ち切った。
藍色のドレスをまとったアメリア姐さんが、ヒールの音を鳴らして現れる。夕暮れの光を受けた金色の髪が静かに揺れ、その金茶色の瞳がエリスをまっすぐに見据えた。
「……エリス。どうしてそんな態度をとるの? ヘンリーさんに失礼でしょ」
「でも、お母さん……」
「謝りなさい」
「——っ!」
珍しく眉をひそめた姐さんの、静かで有無を言わさない声。エリスはビクッと肩を震わせると、悲しげに目尻を下げて、それでも納得のいかない様子でそっぽを向いた。
ぷるぷると小さな唇が震えている。大きな瞳に、じわりと涙が溜まっていくのが見えた。
「……お母さんは、私より彼の方が大切なんだね」
絞り出すような声だった。
「……エリス」
アメリア姐さんが悲しげに眉を寄せて、次の言葉を探すように口を開きかける——その前に、エリスは私の手を振り払って走り出した。
一瞬だけ見えた横顔が、泣いていた。
小さな足音が夕暮れの石畳に遠ざかっていく。残された空気が、ひどく静かだった。
「……マティア、ごめんね。あの子の様子を見てきてくれないかしら?」
「! け、けど……」
エリスが消えた方向と姐さんを交互に見て、眉を下げる。自分なんかより、姐さんが直接行った方がいいに決まっている——そう言いかけると、姐さんが静かに首を振った。
「……多分、今はまだ、私に会いたくないと思うから。お願い」
いつもと変わらない柔らかな声なのに、どこか切実な響きがあった。
「……わかりました」
断れるはずがなかった。
踵を返す前に、つい視線がヘンリーさんの方へ向いてしまう。目が合った。申し訳なさそうに、それでも温かく微笑むその表情を見て——改めて、この人の誠実さを実感して、また胸が痛んだ。
慌てて軽く会釈だけして、エリスの後を追う。
おそらく、いつもの場所にいるだろう。そんな予感があった。
走りながら、ふと気づく。
……あれ?
さっきまでずっと隣にいたはずなのに——オズの姿が、どこにも見えない。
なんで?




