15
彼女の奇声が遠ざかり、慌ただしい足音が秋の街路に消えていった。
残されたのは、散らばった静寂と——男が二人。
伸ばしかけた手が宙を掴む。青い髪の男は、その手をゆっくりと下ろした。
「はぁ……また逃げられた」
落胆の色を滲ませた深いため息が、静かな空気に溶けていく。
僕はその様子を横目に、腕を組んで声をかけた。
「おい。誰だ、お前は」
まっすぐ視線を向けると、彼はハッとしたように顔を上げた。
「ああ、ごめん。怪しい者じゃないよ」
慌てた様子で白い軍服の胸元を示す。金と赤の装飾が施された紋章——憲兵だ。しかも紋章の下に飾られた赤いリボンから、相応の位であることが見て取れた。
じっと観察していると、男は戸惑ったような曖昧な笑みを浮かべながら口を開く。
「えっと……実は今度、彼女の養父になる予定なんだ。君は?」
「……養父?」
思わず片眉が上がった。と同時に、ひとつの疑問が解けた気がする——あの瞬間、彼女の顔から色が失われた理由が。
一人で合点がいきながら頷きつつ、僕は胸を張って答えた。
「オズワルド・ウィズダム。彼女の婚約者だ」
「へぇ、婚約者……婚約者!?」
聞き間違いを疑うように男が聞き返す。困惑したまま僕を見下ろすその表情に、満足げに微笑んで見せた。
「ああ。マダムから身請けの許可も得ている。要するに、お前の未来の娘婿だ」
「ごめん、色々と急展開すぎてついていけない」
眉間を片手で押さえながら、もう片方の手のひらをこちらに向けて制してくる。どうやら唐突な現実を処理するのが得意ではないらしい。……軟弱なものだ。
「悩みの種がまた増えた……ところで、クイーンズ・ヘイブンから彼女と一緒に来たの?」
「だったらなんだ」
訝しげに彼を見つめながら肯定する。警戒の色を滲ませる僕の様子を察したのか、彼は苦笑を浮かべながら頭を掻いた。
「アメリアさんはまだいるかな」
「用事がなければいると思うぞ。さっき見送られたばかりだ」
「助かった。ありがとう」
ヘンリーと名乗ったその男は、人当たりのいい笑顔を向けると踵を返した。だが、数歩進んで不意に足を止める。
「婚約の話は後でじっくり聞かせて。……マティアちゃんによろしく」
曖昧に微笑み、今度こそその場を後にした。遠ざかっていく背中を目で追いながら、しばらく考えを巡らせる。
彼女の複雑な家庭環境は調べてわかっていたが——面倒だな。
自分に親がいなくてよかったと心底思いながら、僕はその考えを振り切った。
さて。彼女はどこに逃げ込んだか。
「……大体、見当はつくが」
そう呟くと、僕は足を進めた。
****
倉庫の奥、積み上げられた木箱の隙間に体を押し込んで、私は盛大に泣きじゃくっていた。
木材と埃の入り混じった匂いがうっすら漂うはずなのに、鼻水で完全に詰まっていて何も感じない。冷たい床板が頬に当たって、じんわりと体温を奪っていく。
懐からサイモンお兄ちゃんとロビンお姉ちゃんの人形を取り出して、胸に強く引き寄せた。
またやってしまった。
わかってる、逃げても何も変わらないって。けど足が勝手に動いて、気づいた時にはもうここまで走っていた。
「ひーん……ぐすっ……うぅっ」
情けなさと悔しさが混ざって、涙がとめどなく滲む。
それに——ヘンリーさんを見た時の、あの胸の痛み。
姐さんが選んだ人。嬉しそうに「ヘンリーさん」と名前を呼ぶ時の、あの声。
わかってる。おめでとうって言わなきゃいけないって。姐さんの幸せを、ちゃんと喜ばなきゃいけないって。
でも、できなかった。笑えなかった。そんな自分が、どうしようもなく嫌だった。
「うぇ〜ん……消えてなくなりた〜い」
『そんなこと言うなよ。アメリアとエリスが悲しむぞ』
『そうよ。もっと自信を持って』
サイモンお兄ちゃんとロビンお姉ちゃんの声で、自分の口が動く。涙は温かいのに、心の底だけがひんやりと冷たかった。
いつからだろう。
ある朝、仕事へ向かうアメリア姐さんの後ろ姿を見送りながら、なんとなく目が離せなくなった。眩しいと思った。胸が、ぎゅっと苦しくなった。
それがなんなのか、ずっと考えないようにしていた。
「アメリア姐さん……」
暗がりの中で、その名前を小さく呟く。熱を帯びたように、甘く。
もし叶うなら……。
——その瞬間、木箱の隙間に光が差し込んだ。
「っ!」
反射的に目を細める。新鮮な空気が頬をかすめ、前髪を揺らす。まぶたをゆっくり持ち上げると——深緑色の瞳と、真正面からぶつかった。
細めた瞳の奥に、探しものを見つけた時の光が宿っている。彼は静かに、微笑んでいた。
「見つけた」
「ひんぎゃあぁ!!」




