12
僕に婚約者ができた。
——だが、先ほどまた吐き出して医療室まで運ばれた。
その一連の流れを見届け、不服ながらもマダム・アッシュクロフトと僕だけが休憩室に取り残される形となった。
彼女の嘔吐物で汚れた高級なラグを、従業員の男性が雑巾で一生懸命拭いている。匂いを残さないようにと、窓を開けて換気する音が静かな室内に響いた。
古くも緻密な刺繍が施されている上質なソファに深く腰掛けたマダムは、不快なものを見るように汚れた床を目にすると——疲れたように深いため息をついた。開け放たれた窓から秋の冷たい風が吹き込み、室内に残る僅かな悪臭を運び去っていく。
「はぁ……あの子の給料からクリーニング代を引かないとね」
その美しい顔に残るわずかな皺を眉間に寄せ、それをつまむと頭を抱えたように首を振る。
一方、僕は向かいのソファに座ってその様子を静かに見ていた。だが、すぐに汚れた床に視線を戻す。
「クリーニング代なら僕が支払おう。身請けするんだ、それぐらい容易い」
そう言って肩をすくめた。
そもそも何で吐いたぐらいでこんなにも目の前の老耄が怒るのか理解できない——そんな僕の考えを見透かしたのか、彼女は苛立ちを込めたように目を釣り上げてこちらを睨んできた。
苛立ちを抑えるようにマダムがキセルを取り出す。キセルに火をつけ、紫煙を吸うと鬱憤を吐き出すように煙を吐き出した。
「はぁ? 何言ってんだい。身請けなんてさせられないよ」
「——は?」
その言葉を聞いて、今度は僕の眉間に皺が寄った。理解できずに彼女を睨む。思わず腕を組んで、苛立ちに任せて指を何度もタップした。
「ふざけるな。さっき確かに審査は合格したと言ったはずだぞ」
「わかっちゃいないね。あんたが通過したのは”審査”だけだ」
呆れたように紫煙を吐き出しながらそう言うと、マダムは足を組んで続けた。
「身請け制度は審査を通った上に、娼婦の同意のもとで成り立つんだ。調べたならわかるだろう」
「……」
その最もな言葉に何も言えなくなる。けど、その事実に納得がいかない。苛立ちに任せて弄んでいた指の速度が先ほどよりも上がった。感情に任せて不服そうに顔を逸らすも、マダムはただ肩をすくめるだけだった。
「あの怯えっぷりを見ると、マティアは同意したようには見えないね」
「……喜んでいるように見えたが」
「だとしたら、眼科行きな」
呆れを通り越して心配するような眼差しを向けられた。
やめろ、不愉快だ。
そう言わんばかりに、僕の顔はいつの間にか嫌そうに歪んでいた。
「……本当にガキだね」
マダムは呆れたように首を振りながら紫煙を吐き出す。だが、僕をまた見据えて、気にせずに話を進めた。
「まぁ、あんな子でも今は身請けされたら困るんでね。こっちとしてはありがたいよ」
「……? どういう意味だ?」
彼女の意味深な言葉に片眉を上げ、首を傾げる。すると、マダムはしばらく僕を見つめた後にめんどくさそうに言葉を続けた。
「そのままの意味さ。今はこの地区を騒がせてるリッパーのせいで色々問題を抱えていてね……あんなんでも人手不足だからいたほうがマシなのさ」
彼女の言葉に、ぴくりと眉が反応する。少しの静寂が場に張り詰めた。僕は、静かにその沈黙を破る。
「——『リッパー事件』のことか」
僕は彼女の言葉から話を切り取ってそう聞いた。ここ最近この地区に起きている犯罪の情報を思い返す。
この事件は他の事件と比べて異質で、この学園都市のみならず国中を騒がせている。事前に調べなくても、その噂は嫌でも僕の耳に入ってきていた。
——『リッパー事件』。
娼婦たちを守るためにセキュリティが徹底された地区で初めて起きた連続殺人事件。なんでもその犯人は真夜中に無差別に人を襲い、殺された遺体を切り裂くのだとか——。
マダムはその件に触れて僅かに瞼を反応させる。するとまたキセルを吸い始めた。
「……流石に知っているみたいだね。その通り、うちの従業員も何人か殺されてね。人手不足だからあんなんでもいてもらったほうがいいのさ」
彼女は一度言葉を切ると、紫煙を吐き出した。
「だから、諦めることだね。そもそもガキが身請けするなんてまだ早い。とっとと帰んな」
そっけなくそう冷たく返すと、彼女はゆっくり立ち上がる。ヒールの音が床に響き、休憩室のドアへと向かった。
そんな彼女の後ろ姿を見て、僕はニヤッと笑うと彼女に声をかけた。
「——ということは、その事件を解決すれば、彼女をもらえるんだな?」
「……は?」
僕の言葉が彼女の足を止める。訝しげに眉を寄せて間の抜けた声を出したマダムが振り返ると、呆れたようにこちらを睨んだ。
「馬鹿なのかい? リッパー事件を解決したところで、あの子がお前を受け入れないだろうよ」
「馬鹿なのはお前だ。それはやってみないとわからないだろう」
マダムの言動を理解できないように片眉を上げる。そんな僕を見て彼女は呆然としていたが、僕は気にせずにただただ笑みを深めた。
「喜べ、マダム」
一度言葉を切り、自信満々に立ち上がる。
腰に手を当て、胸を張ると僕は高らかに告げた。
「カプシリアンのロード代理であるこの僕が——この事件を解決してやる」




