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11−1

——ティア……マティア……。


 誰かが名前を呼んでいる。


 耳に心地いい優しい声が鼓膜を震わせ、暗闇の海の中をゆらりゆらりと漂わせた。


「んぅっ……」


 なんかすごくいい匂いする。いつもより枕もふわふわしてるし……。


 すぐ真横にある柔らかな何かに顔を埋め、深く息を吸うと甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

 安心する……ずっとここにいたい。


 けれど、その声はここにいてはいけないと知らせるように私の耳元で何度も名前を囁いた。


「——マティア……マティア」


「んぅ……うへへへっ……あと五分だけ……」


「もうだめよ? 起きて」


「うへへへへっ……………へ?」


 声に導かれるままに薄く瞼を上げる。すると、金茶色の瞳と目が合って——ピタッと固まった。


 美しく整った顔立ちの、アメリア姐さんが私の顔を覗き込んでいる。


 しばらくその芸術品みたいな顔を見つめて息を止めていたが……彼女の困ったような微笑みを見て、飛び起きた。


「ぴぇぁっ!!」


「ふふ、元気そうでよかった」


 慌てて飛び起きると、高級なソファの隅までずりずりと後退する。


 そんな私を見てソファに座っていた姐さんはきょとんと目を瞬くと、不思議そうに首を傾げた。


 ——ああ、やめて。可愛すぎる。


 顔が爆発しそうなくらい真っ赤になる。あわあわと情けない声を漏らして目をカッと見開く私に、アメリア姐さんはふふっと柔らかく笑うだけだった。


「にゃ、にゃ、にゃ……にゃんでっ」


「なんでって……覚えていない? あなた、急に気絶したのよ?」


「……へ?」


 ポカンと口を半開きにして固まる。


 気絶……なんで?


 そんな私の考えがアメリア姐さんに伝わったのか、彼女は苦笑を浮かべて眉を下げた。


「身請けの話を持ち出されて衝撃を受けたのね……流石にあの状態で彼の元に連れていけないから、休憩室まで運んで休ませてもらってたの」


 アメリア姐さんが控えめに微笑んで丁寧に説明をする。


 アメリア姐さんが心配そうにこちらを見つめている。


 そんな彼女の様子を見て固まっていると、今度は顔が青くなった。


 そ、そうだ……わ、私。マダムから彼の名前を聞いて……それで……。


 記憶を必死に掘り返して気絶する前の会話を思い出す。確か、彼が身請けしに来たとマダムは確かに口にしていた。


 ——『オズワルド・ウィズダム』と。


「ぎぃや〜!!!!」


「わっ! 今日の中で一番でかい声」


 休憩室の扉から水の入ったコップを持ってやってきたエリスがビクッと体を震わせ、コップを落としかける。若干引いた様子を見せながらもこの情景に慣れたのか、深いため息をつきながら頭を振った。


 磨き上げられた木製のテーブルに、深い赤色のベルベットのソファ。天井の小ぶりなシャンデリアが柔らかな光を落とすここは、よく娼婦たちが利用する休憩室だった。窓から差し込む秋の午後の淡い光が、エリスの呆れ顔を照らしている。


「もう、気絶した時はどうなるかと思ったけど……その様子だと大丈夫そうだね」


「うぅっ……エリス〜」


 エリスが近づいて水を渡してくれる。その優しさに胸を打たれると、思わず涙がこぼれ出た。


「うっ……ひ〜ん……全部悪夢だったって言って〜」


「残念ながら現実」


「うわ〜ん!」


 現実を突きつけてくるエリスの言葉をきっかけにわんわん泣き始め、ソファのクッションに顔を埋めるも「汚れるでしょ」と取り上げられる。


 エリスの相変わらずな様子に、今度は床に這いつくばった。横で見ていたアメリア姐さんが困ったような笑みを浮かべながら手を頬に添える。


「あらあら……これならまだ膝枕したまま寝かせてあげた方が良かったかしら?」


「ひぐっ……ぐすっ……うぇーん! そのまま永眠したかったよ〜!」


「縁起でもないこと言わない!」


 慌ててツッコミ返すエリスを置いて、一人膝枕されていた衝撃の事実にさらに嗚咽を漏らしながら悔しそうに床を拳で叩く。


 目覚める前のあの柔らかな感触と甘い芳しい匂いを思い出して、血の涙が出た。


 ……ああ、時間って巻き戻せたらいいのに。


「あらあら……けど、安心してマティア。あの審査がある限り、身請けは成立しないもの」


「ぐすっ……うぅっ……」


 アメリア姐さんの励ましの言葉に沈んでいた心に光が差したような気がした。顔を上げ、濡れた頬を袖で拭う。


 ——『身請け制度』。


 他の都市にある娼館と違い、保護を目的として作られたこの地区の娼婦たちは体を売らない。原則は会話のみの接待で、娼婦たちの同意があれば体を許すことが可能なのだ。


 それゆえに客は娼婦たちを身請けしたい場合、金で買えない。


 各娼館のマダムの厳正な審査を通った上で娼婦の合意の元、身請けがやっと成立するのだ。


「そうよ! 特にマダムの審査はこの地区で一番厳しいんだから大丈夫!」


「え、エリス……」


 エリスが励ますようにそう言って微笑むと、じーんっと胸が打たれる。


 また涙が出そうになるも、必死に堪えて袖で涙を拭って決意を固めたように前を見据えた。


「そ、そうだよね……み、身請けなんて怖くないっ……怖くないっ!」


「何が怖くないんだ」


「うひゃぁ!!」


「ぎゃあ!」

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