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夕日が、窓の向こうに沈もうとしていた。
オレンジ色のはずなのに——私の目には、くすんで見えた。色が足りないみたいに、どこかぼやけて、薄くて、きれいだって思えなかった。
白い病室。白いシーツ。白い天井。ハートヴェールの国立病院の大部屋は、いつも静かだった。隣のベッドのおばさんはもう眠っている。反対側のお姉さんも、カーテンの向こうで寝息を立てていた。
私だけが起きている。
ベッドの上で上体を起こしたまま、膝の上に置いた手紙を握りしめていた。封は開けていない。お母さんの字で私の名前が書かれた封筒を、ただ握っているだけ。
窓から風が吹き込んだ。冷たくて、少しだけ湿った風。私の長い髪がふわりと揺れて、頬にかかった。いつもはサイドテールにしているのに、今日はそのまま下ろしている。
だって——もう、この髪を結ってくれる人がいないから。
自分でやればいい。わかってる。わかってるのに、鏡の前に立つとお母さんの指が髪に触れる感触を思い出してしまって、手が動かなくなる。
——お母さん。
最後に見たお母さんは、泣いていた。
記憶はまだあやふやで、ぼんやりしている。撃たれた時の痛みも、倒れた時の衝撃も、はっきりとは覚えていない。でも、それでもお母さんが泣いていたことだけは、くっきりと残っている。
私が泣かせたんだ。
胸がきゅっと苦しくなった。
でも、涙は出なかった。もうたくさん泣いたから。一週間前に憲兵さんたちから、お母さんが街を壊して亡くなったって聞いた時、嘘だって泣いた。いっぱい騒いだ。暴れた。大人の人たちは何も言わなかった。ただそばにいて、泣く私を抱きしめてくれた。
本当は——今もどこかで、お母さんが生きてるんじゃないかって思ってる。
がちゃっ。
病室の扉が開く音がした。
心臓が跳ねた。反射的に振り返る。
こうやって私は毎回、振り返ってしまう。もしかしたらお母さんが来たんじゃないかって。あの笑顔で「遅くなって、ごめん」って言ってくれるんじゃないかって。
扉の向こうに見えたのは——青い髪だった。
心臓が、すとんと落ちた。
お母さんじゃない。
「………」
青い瞳と目が合った。何も言わずに、ゆっくり窓に視線を戻した。
夕日はやっぱり、くすんで見えた。
「やぁ、エリスちゃん」
ヘンリーが近づいてきて、ベッドの横の椅子を引いて座った。骨折した腕を布とギプスで固定していて、右目には眼帯をしている。
最初にその姿を見た時は、胸が締めつけられた。でも毎日のように来るから、もう見慣れてしまった。
——ううん。本当は、見慣れたふりをしてるだけ。
その傷を見ると、お母さんがいなくなったことが本当なんだって認めなきゃいけなくなるから。もう来ないでほしかった。
「……手紙、読んでいないんだね」
いつもと違うことを言われて、体がぴくりと反応した。膝の上の手紙を、無意識に強く握る。
「……ヘンリーさん」
窓から目を離さないまま、口を開いた。声が小さかった。自分でも聞こえるか怪しいくらい。
「私、いつ捕まるの?」
隣で、息を呑む音がした。
お姉ちゃんも、姐さんたちも、みんな捕まったって聞いた。
それに——あの時見た夢。あれが夢じゃなかった気がする。体の奥で何かが暴れていた感覚。熱くて、怖くて、自分が自分じゃなくなるみたいだった。
弾かれたように振り返って、声を上げた。
「あのねっ……もしかしたら、私もっ——」
いつか、お母さんみたいに——。
言いかけた口を、大きな手が優しく覆った。
ヘンリーがまっすぐこちらを見ていた。青い瞳に迷いはなかった。ゆっくり、首を振る。
「大丈夫。俺が、そうさせない」
目が、大きく開いた。
呆然としている私から手を離すと、彼は静かに続けた。
「……エリスちゃん。急な話なんだけど——俺の養子にならないか」
「———ぇ」
声が出なかった。意味がわからなくて、ただ口が開いたまま固まった。
ヘンリーは言葉を選ぶように少しだけ間を置いて、話を続けた。
「夏の都『ソルヘア』に支援学校がある。君みたいな子供がたくさんいる学校で、先生も親身になってくれるんだ」
制服のポケットからパンフレットを取り出して、私に差し出した。思わず受け取る。表紙に学校の名前と、『支援学校』という文字が並んでいた。
「もちろん、俺を父親だと思わなくたって構わない。会いたくなかったら寮に入ってもいい。お金は全部俺が出すから」
「……なんで、そんなことするの」
震える声で遮った。パンフレットを握る指に力がこもる。
「……私が、お母さんの子供だから?」
ヘンリーが、少しだけ黙った。
俯いて——それから顔を上げて、小さく頷いた。
「正直に言うと、そうだよ」
一度息を整えてから、静かに続けた。
「……俺は、彼女を守れなかった。その分、君を守りたい。どうか俺のわがままを聞いてもらえないだろうか」
そう言って、頭を下げた。
大人の人が、私に頭を下げてる。
言葉が出なかった。青い髪のてっぺんが見えている。その頭から目が離せないまま、唇が震えた。
「私……あなたが嫌い」
「……知ってる」
「じゃあ、なんでっ」
「俺が、君を嫌いじゃないからだよ」
顔を上げたヘンリーが、まっすぐこちらを見た。
「君が俺のことをよく思ってなかったのは知ってる。お母さんを取られるのが嫌だったのも……正直、最初は傷ついた。けど」
一度、言葉を切った。
「……けど、それでも。お母さんを大好きだった君を、恨む気持ちにはならなかったよ」
——涙が、出た。
喉が詰まって瞼が熱くなる。
枯れたはずだったのに。もう出ないと思ってたのに。
ヘンリーが手を差し伸べていた。傷だらけの、大きな手。
潤んだ目で、その手を見つめた。
「……私、お母さんみたいになるかもよ」
「俺がさせない」
「暴れるかもっ」
「それでも一緒にいるよ」
「まだ……ひくっ……お姉ちゃんにも会えないっ」
「ゆっくりでいい……いつか、一緒に会いに行こう」
「ひくっ……ぐすっ……」
もう止まらなかった。
彼が私を抱きしめた。大きくて、温かくて——お母さんとは全然違う腕だった。
本当はお母さんに抱きしめてほしい。お姉ちゃんにも会いたい。いっぱいごめんなさいを言いたい。
でも——今だけは。
このぬくもりに縋って、声を上げて泣いた。
彼は何も言わなかった。ただ、背中をさすってくれていた。
泣いて、泣いて——しばらくして泣き止んだ時。
窓の外の夕日が、少しだけ眩しく見えた。
****
それから数日後、お姉ちゃんから、手紙が届いた。
まだ、開けられない。
でも、いつか。お母さんの手紙と一緒に読もう。
お母さんがいなくなったことを、ちゃんと受け止められた時に。
その日が来るまで——二通の手紙を、大事に抱えていようと思った。




