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白い吐息が、唇の先で生まれて消えた。
空中監獄の空気は薄くて冷たい。鉄と石で組まれた壁は、触れるだけで指先の体温を奪っていく。天井の隅に嵌め込まれた小さな灯りが、青白い光を通路に落としていた。その光すら寒々しい。
僕は物陰に隠れながら、何もない天井を見上げていた。
泣き声が、聞こえてくる。
格子の向こうから、壁を伝って反響する。監獄中に響き渡るほどのその声はまるで子供みたいだと思った。いや——子供なのだ、あれは。母親を失った子供の泣き声だ。
嗚咽が途切れて、また上がる。名前を呼んでいる。何度も、何度も。アメリアの名前を。
その声を聞きながら——少しだけ、安堵している自分がいた。
泣いている。生きて、泣いている。
前までは鬱陶しいと思っていた。あの泣き顔も、情けない声も、今は——もう一度聞けてよかったと思っている。
誰がこんな日が来ると思っただろうか。
ふっと、力の抜けた笑みが漏れた。
……初めて会った時より、だいぶ絆されたな。
そう思いながら、瞼を閉じた。
嗚咽が反響する。しゃっくり混じりの掠れた声が、冷たい壁を伝って鼓膜に届く。
治まるまで——ここで待とう。
誰にも気づかれないまま、ただ耳を澄ませた。
****
泣き声が止んだ。
しばらくして、格子の軋む音が聞こえた。扉が開く音。足音が二つ——片方は軽くて不安定で、もう片方は慣れた歩調。
彼女が——牢屋から出た。
セドリックに付き添われて、通路の向こうへ歩いていく。看守に話をつけに行くのだろう。小さな足音が遠ざかっていくのを耳で追いながら、僕は背を向けた。
帰ろう。
用は済んだ。彼女が立ち上がった。それだけで、充分だ。
その場を離れようとした、その時だった。
「よぉ、終わったぜ」
背後から声が飛んできた。
聞き覚えのある——というより、聞き飽きた声。
「……はぁ」
盛大な溜め息を吐きながら振り返った。
案の定——琥珀色の瞳をした男が、壁にもたれて立っていた。セドリック。看守への引き渡しを済ませて、もう戻ってきたらしい。相変わらず動きが速い。
顔を見た瞬間、眉間に皺が寄った。
「あの様子を見れば終わったことは知っている。何の用だ」
「何の用だって……車椅子のお前をここまで連れて来たのは誰だー?」
呆れたように息をつきながら、じとりとこちらを見下ろしてくる。琥珀色の瞳が、薄暗い通路の中でも妙に鮮やかだった。
僕は車椅子の車輪を掴んで、くるりと彼と正面から向き直った。見上げる形になるのが不愉快だったが、能力を使い果たした代償を払った今の体では立ち上がることすらできない。
「うるさい、誰も頼んでない」
「まだ入院中なのに、無理やり抜けさせてここに来させてやったんだぜ? お礼の一言くらいあってもいいんじゃねぇの?」
「死ね」
「死ねはないだろっ」
間髪入れない鋭いツッコミが飛んできた。舌打ちする。こいつにお礼なんて、反吐が出る。
だが——そんな態度にも慣れきっているのか、セドリックは大げさに肩をすくめて溜め息をついただけだった。それから、少しだけ声のトーンを落として続けた。
「いいのか、会わなくても?」
一瞬——手が止まった。
「わざわざ空中監獄の当主に連絡して、彼女の待遇をよくするように進言したんだろ」
喉が詰まった。
視線が——自然と、明後日の方向に逸れた。天井の隅にある青白い灯りを見つめる。答える気はなかった。
セドリックが苦笑するのが、気配でわかった。
「挙句に俺にこんな大役を任せて……お前が行けば、マティアも喜んだんじゃねえの?」
沈黙が落ちた。
監獄の冷気が、頬を撫でていく。遠くで金属の扉が閉まる音がした。反響が長く尾を引いて、やがて消えた。
「……あれは、僕の役目じゃない」
低い声で、そう返した。
車椅子の車輪を回して、彼に背を向ける。鉄の車輪が凍りかけた石床の上を擦って、じゃり、と小さな音を立てた。
「それに、もう会った」
その一言を残して、車輪を押した。
背後でセドリックの気配が止まるのがわかった。沈黙が落ちる。振り返らなかった。けれど、彼がどんな顔をしているかは手に取るようにわかった。
車輪が石床を転がる音だけが、通路に響いていた。
少し間があって——背後から、声が追いかけてきた。
「彼女、覚えてねぇぞ」
少し張り上げた声だった。通路の壁に反響して、僕の背中に届く。
車輪を回す手は、止めなかった。
同じように——少しだけ声を張って、前を向いたまま答えた。
「それでいい」
車輪が角を曲がる。通路が折れて、セドリックの姿が視界から消えた。
足音も声も届かなくなって、自分の車輪の音だけが残った。冷たい空気の中を、鉄の車輪がかたかたと鳴る。
誰もいなくなった通路で——ぽつりと、呟いた。
「……それがいい」
白い吐息が、唇の先で生まれて——消えた。
誰に聞かれるわけでもないその声は、ただ虚しく、この空中監獄の冷たい壁に吸い込まれていった。




