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『——マティアへ』


 その一行を目にした瞬間、息が止まった。


 手紙を持つ左手が震えている。指先が白くなるほど便箋を掴んでいるのに、力が入っているのかいないのかすらわからなかった。


 アメリア姐さんの字だった。


 流れるような筆跡。丁寧で、品があって、一画一画に温もりがある。まだ何も知らなかった頃——この字がずっとそばにあると思っていた頃と、何も変わらない字。


 また涙が滲んだ。コートの袖で強く拭った。手紙を汚すわけにはいかない。目を赤くしたまま、文字を追い始めた。


『これを読んでいるということは、私はヘンリーさん達に捕まったか、もう亡くなった後なのかしら……どちらにせよ、あなたを悲しませてごめんなさい。本当に、母親として恥ずかしい姿を見せてしまったわ』


 喉の奥が詰まった。


 母親として——その言葉が、胸の奥に深く刺さった。


 姐さんはわかっていたんだ。自分がどうなるか。それでもこの手紙を書いた。この字を綴った。マティアと宛名を書いて、便箋を折って、封筒に入れた。その全部を——覚悟の上でやっていた。


 せっかく拭ったばかりの涙が、もう込み上げてくる。唇を噛んで堪えた。まだ途中だ。最後まで読まないと。


『到底許されることをしたとは思っていない。罪を償えるなら、死んだって構わない……けど、唯一の心残りがあるとしたら、あなたとエリスよ』


 私と、エリスの名前。


 はっと息を呑んだ。姐さんが最後に心残りだと思ったのが——私たちだった。事件のことでも、罪のことでもなくて。


『私のせいであなた達が今後辛い思いをすると思う……だから、こんな私を恨んでもいいし、今後私のことは忘れてもいい。ただ、一つだけ言わせて』


 姐さんの字が——僅かに、揺れていた。


 それまで整っていた筆跡が、この行だけ少しだけ乱れている。ペンを持つ手が震えていたのだろう。それを見た瞬間、目を見開いた。涙が一筋、頬を伝って顎から落ちた。


 姐さんも——泣きながら、書いていたのだ。


『——マティア。あなたは自分が思っている以上に素敵で賢くて、繊細だけど誰よりも優しい子よ。それだけは忘れないで生きて欲しい』


 文字が滲んだ。涙で。自分の涙で。


 喉の奥が焼けるように熱くて、息がまともにできなかった。


 ただの娼館の下働きの少女。臆病で泣き虫で、短剣一本まともに振れなかった自分。そんな私を——姐さんは、こんなふうに見ていてくれた。


 こんなふうに——思っていてくれた。


『……最後に、こんな私をあなたの母親にしてくれてありがとう。あなたとエリスと過ごした毎日が何にも代えがたい宝物だった。幸せになってね…ずっと愛してる——アメリア』


 ——もう、堪えきれなかった。


「あっ……あああっぁ……」


 声を上げて泣いた。


 しゃっくりが止まらなかった。涙が便箋の上に落ちて、インクを滲ませる。だめだ、また手紙が——そう思っても体が止まらなかった。


 手紙をくしゃりと胸に押し当てて、そのままうずくまった。膝を抱えて、額を膝に押し付けて、声を殺すこともできずに泣いた。


 会いたい。


 会って、抱きしめたい。またあの笑顔が見たい。


 脳裏にアメリア姐さんの顔が浮かんでは消えた。頬に手を当てて笑っている顔。エリスの頭を撫でている横顔。パウンドケーキを焼きながら鼻歌を歌っている後ろ姿。


 その声でまた私の名前を呼んで。


 手紙じゃなくて、直接言って。


 ——けど、もう。


 その願いが叶わないことくらい、わかっていた。


 喪失感と愛おしさが、胸の中で絡み合って解けない。嗚咽が漏れるたびに体が震えて、涙が石床を濡らし続けた。止め方が、もうわからなかった。


 格子の向こうで——会長は、何も言わなかった。


 ずっとそこにいた。地面に座ったまま、こちらを静かに見ていた。


 不意に——格子の隙間から、手が伸びてきた。


 私の頭に、触れる。


 大きくて、温かい手のひら。何も言わずに、ゆっくりと髪を撫でてくれた。


 その温もりが——余計に胸をほだした。涙腺がまた緩んで、堪えていたものが全部溢れた。


 母親を求める子供のように、泣いた。


 手紙を胸に抱きしめたまま、姐さんの名前を何度も呼んだ。声が枯れるまで。涙が出なくなるまで。


 確かに——姐さんは罪を犯した。多くの人を傷つけた。それは消えない。


 けど。


 私の大好きな人であることに——何一つ、変わりはなかった。


****


 どれくらい泣いたのだろう。


 気づいた時には、声がもう出なかった。涙も枯れていた。手紙を抱きしめたまま、虚ろな目で石床を見つめている自分がいた。


 頭を撫でていた手が、静かに離れた。


 コートの擦れる音がして、会長がゆっくり立ち上がるのが気配でわかった。


 足音が牢屋の扉に向かう。金属の軽い音がして——きぃ、と扉が開いた。


 あまりにもあっさりと。


 鍵は——いつ開けたのだろう。いや、そもそも最初からかかっていなかったのかもしれない。


 どちらにせよ——彼は扉を開けたまま、こちらを見下ろしていた。


「……で、どうする?」


 その声に、ぴくりと体が反応した。


 ゆっくり顔を上げる。涙で腫れ上がった目で彼を見つめた。セドリック会長はいつもの軽い笑みを浮かべていた。けれどその目は——笑っていなかった。まっすぐに、こちらを見ていた。


「このままずっとここにいてもいいけどさ。お前の母親は、それを望むか?」


 ——息が、止まった。


 核心だった。


 姐さんは——あの手紙で、何を書いた。「生きて欲しい」と。「幸せになってね」と。


 今の私を見たら、姐さんはどう思うだろう。


 食事も取らず、牢の中でうずくまって死を望んでいる私を見て——あの笑顔を、浮かべてくれるだろうか。


 浮かべるわけがない。


「……望まないっ」


 涙で嗄れた声が、喉の奥から出た。


 立ち上がった。ずっと膝を抱えていたせいで足が震える。ふらついて、壁に手をつきそうになった。それでも——踏み留まった。


 一歩。また一歩。牢屋の扉に向かって歩く。


 その歩みに、もう迷いはなかった。


 扉の向こうへ足を踏み出した瞬間、まっすぐ彼を見上げた。


「——もう、大丈夫です」


 声は掠れていた。目は腫れて、顔はぐしゃぐしゃで、とても大丈夫には見えなかっただろう。


 けれど——心は、嘘をついていなかった。


 セドリックは私をしばらく見つめて、それからふっと笑った。さっきまでの軽い笑みとは少し違う……柔らかくて、でも力強い笑み。


 彼は何も言わずに頷くと、私の背中にそっと手を添えて、空中監獄の外へ促した。


 私は確かに泣き虫で、気弱で、すぐに気絶してしまう子かもしれない。


 けど——それでも。


 アメリア姐さんに次に会った時に、少しでも笑顔で胸を張れる自分になりたい。


 その一心で私は、歩み始めた。

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