表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

101/113

68-2

 なんで。


 姐さんは理性を失っていたはずだ。私を殺そうとしていた。あの金色の目に、私を認識する色はもうなかった。落下する私を焼き尽くそうとすらした。


 なのに——この手は、私を守るように閉じられていた。


 殺すために包んだのかもしれない。その可能性は、否定できなかった。


 けれど——心のどこかで、そうじゃないと思いたかった。最後の最後に、姐さんの中の何かが戻ってきてくれたのだと——信じたかった。


「……ヴ……ゥ……」


 呻き声が、耳を掠めた。


 微かな——消えかけの声。


 弾かれたように、声のした方を振り返った。


 少し離れた場所に、アメリア姐さんの巨体が横たわっていた。倒壊した建物を押し潰すようにして、瓦礫の上に倒れている。青黒い鱗は光を失って、灰色にくすんでいた。


「アメリア姐さんっ」


 叫んだ。声はひどく嗄れていた。


 走ろうとした。足が動かなかった。膝が笑って、一歩目でよろめいた。限界なんてとっくに超えている足が、もう言うことを聞かない。


 それでも——行かなきゃ。


 足を引きずった。石畳の上を、ほとんど這うようにして進んだ。瓦礫を越えるたびに膝が擦りむけて、手が傷ついて、それでも止まらなかった。


 やっとの思いで——姐さんの顔に辿り着いた。


 もたれかかるように、その鱗に縋りついた。冷たかった。さっき両手の中にあった温もりが、もう薄れ始めている。喉元の傷口から焼けたような鉄の匂いが鼻をつんざいたけれど、構わなかった。


 石畳の上に、血が広がっていた。姐さんの体の下から流れ出した大量の血が、朝の光を反射して鈍く光っている。


 その量を見て——わかった。


 もう、長くない。


「……ォ……」


 姐さんの口元から、微かな音が漏れた。


「! 姐さんっ」


 顔を上げる。


 わずかに開かれた右目が——こちらを見下ろしていた。あの金色の瞳。けれど、もう光がほとんど残っていない。瞳孔が開いて、焦点が合っているのかもわからなかった。


 それでも——私を、見ていた。


 動く気力はもうないのだろう。ただ、その瞳だけが、静かに私を映していた。


 唇が、震えた。瞼が熱い。喉の奥が焼けるように詰まって、息をするだけで涙がこぼれそうになる。


 泣くな。今は——泣いちゃだめだ。


 そう言い聞かせて、顔を上げた。


 精一杯——笑った。


 ぎこちなかった。唇が引きつって、頬が震えて、笑顔の形を保つだけで全身の力がいった。でも、これが私の限界だった。これ以上は、できなかった。


「姐さん……アメリア姐さん」


 もう一度、名前を呼んだ。声が震えるのを必死に抑えて、できる限り優しく——語りかけた。


「私、ずっと言いたかったことがあるの」


 一度、言葉を切った。


 息を吸う。吐く。堪えきれずに、一粒の涙が頬を伝った。それでも——笑顔は、崩さなかった。


「——私、アメリア姐さんが大好き」


 言えた。


 やっと——言えた。


 言葉が、止まらなかった。


「姐さんの笑顔が特に大好きで……困った時に頬に手を添えて笑う姿も可愛いんだけど、やっぱりお仕事してる時の楽しそうな顔とか、エリスと私に向ける素の笑顔も好きで……」


 照れたように、はにかんだ。自然と口調が早くなる。好きなところを並べ始めたら、次から次へと溢れてきて、止められなかった。


「それとね……姐さんの声が好きで……私とエリスに絵本を読んでくれた、あの優しい声が好き……あれで眠るのが楽しみだったのっ」


 姐さんの息が、浅くなっていた。さっきよりも弱く、間隔が長くなっている。


 しゃっくりが、込み上げてきた。目から、ぽろぽろと涙が溢れ始めた。もう止められなかった。


「あと……あとね……ひくっ……姐さんが家で作ってくれたパウンドケーキが好き……ぐすっ……あれが食べたくて、私とエリス一生懸命宿題頑張ったんだよ……ひくっ……だからっ」


 笑顔が、もう保てなかった。


 顔がぐしゃぐしゃに崩れて、嗚咽が喉を突き破った。言葉にならない。伝えたいことはまだたくさんあるのに、声が、もう形にならなかった。


 もっといっぱい一緒にいたい。またパウンドケーキが食べたい。抱きしめてほしい。エリスと三人で、また一緒に暮らしたい。


「——だからお願い、行かないでっ」


 掠れた声で、懇願した。


 虫の鳴くような声だった。情けなくて、弱くて、小さくて。それでも——持てる全部を込めた。


 返事は、なかった。


 姐さんの体が——少しずつ、冷たくなっていくのがわかった。鱗に触れた手のひらから、温もりが引いていく。


 息の音が、聞こえなくなった。


 顔を上げた。


 あの金色の瞳に——もう、光は宿っていなかった。


 開いたまま、何も映していない目。さっきまで私を見下ろしていた目。怒りに燃えていた目。笑っていた目。泣いていた目。全部——全部、もう動かなかった。


「——……姐、さん」


 呼んだ。返事はない。


 もう一度呼んだ。返事はない。


 鱗に覆われた姐さんの顔を、両腕で抱きしめた。焼けた右腕が悲鳴を上げたけれど、そんなものはもうどうでもよかった。冷たい鱗に頬を押し当てて、声を上げて泣いた。


 どれくらいそうしていたのか、わからない。


 遠くから足音が近づいてきた。複数の足音。統制の取れた、軍靴の音。


 特殊部隊と名乗る人間たちが、私の周りを取り囲んだ。誰かが肩に手を置いて、離れるよう促す。


 私を——姐さんから、引き剥がそうとしていた。


 嫌だった。


 振り払った。掴まれた腕を振り解いて、姐さんの鱗をもっと強く掴んだ。指が白くなるほど力を込めて、離さなかった。


「いやだっ……いやだぁっ」


 泣き叫びながら、しがみついた。何を言われても、誰に引っ張られても、この手だけは離さなかった。


 力尽きるまで——離さなかった。


 ——こうして、本当の意味で『リッパー事件』は解決した。


 多くの傷跡と後悔を残して——幕を、閉じたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ