68-2
なんで。
姐さんは理性を失っていたはずだ。私を殺そうとしていた。あの金色の目に、私を認識する色はもうなかった。落下する私を焼き尽くそうとすらした。
なのに——この手は、私を守るように閉じられていた。
殺すために包んだのかもしれない。その可能性は、否定できなかった。
けれど——心のどこかで、そうじゃないと思いたかった。最後の最後に、姐さんの中の何かが戻ってきてくれたのだと——信じたかった。
「……ヴ……ゥ……」
呻き声が、耳を掠めた。
微かな——消えかけの声。
弾かれたように、声のした方を振り返った。
少し離れた場所に、アメリア姐さんの巨体が横たわっていた。倒壊した建物を押し潰すようにして、瓦礫の上に倒れている。青黒い鱗は光を失って、灰色にくすんでいた。
「アメリア姐さんっ」
叫んだ。声はひどく嗄れていた。
走ろうとした。足が動かなかった。膝が笑って、一歩目でよろめいた。限界なんてとっくに超えている足が、もう言うことを聞かない。
それでも——行かなきゃ。
足を引きずった。石畳の上を、ほとんど這うようにして進んだ。瓦礫を越えるたびに膝が擦りむけて、手が傷ついて、それでも止まらなかった。
やっとの思いで——姐さんの顔に辿り着いた。
もたれかかるように、その鱗に縋りついた。冷たかった。さっき両手の中にあった温もりが、もう薄れ始めている。喉元の傷口から焼けたような鉄の匂いが鼻をつんざいたけれど、構わなかった。
石畳の上に、血が広がっていた。姐さんの体の下から流れ出した大量の血が、朝の光を反射して鈍く光っている。
その量を見て——わかった。
もう、長くない。
「……ォ……」
姐さんの口元から、微かな音が漏れた。
「! 姐さんっ」
顔を上げる。
わずかに開かれた右目が——こちらを見下ろしていた。あの金色の瞳。けれど、もう光がほとんど残っていない。瞳孔が開いて、焦点が合っているのかもわからなかった。
それでも——私を、見ていた。
動く気力はもうないのだろう。ただ、その瞳だけが、静かに私を映していた。
唇が、震えた。瞼が熱い。喉の奥が焼けるように詰まって、息をするだけで涙がこぼれそうになる。
泣くな。今は——泣いちゃだめだ。
そう言い聞かせて、顔を上げた。
精一杯——笑った。
ぎこちなかった。唇が引きつって、頬が震えて、笑顔の形を保つだけで全身の力がいった。でも、これが私の限界だった。これ以上は、できなかった。
「姐さん……アメリア姐さん」
もう一度、名前を呼んだ。声が震えるのを必死に抑えて、できる限り優しく——語りかけた。
「私、ずっと言いたかったことがあるの」
一度、言葉を切った。
息を吸う。吐く。堪えきれずに、一粒の涙が頬を伝った。それでも——笑顔は、崩さなかった。
「——私、アメリア姐さんが大好き」
言えた。
やっと——言えた。
言葉が、止まらなかった。
「姐さんの笑顔が特に大好きで……困った時に頬に手を添えて笑う姿も可愛いんだけど、やっぱりお仕事してる時の楽しそうな顔とか、エリスと私に向ける素の笑顔も好きで……」
照れたように、はにかんだ。自然と口調が早くなる。好きなところを並べ始めたら、次から次へと溢れてきて、止められなかった。
「それとね……姐さんの声が好きで……私とエリスに絵本を読んでくれた、あの優しい声が好き……あれで眠るのが楽しみだったのっ」
姐さんの息が、浅くなっていた。さっきよりも弱く、間隔が長くなっている。
しゃっくりが、込み上げてきた。目から、ぽろぽろと涙が溢れ始めた。もう止められなかった。
「あと……あとね……ひくっ……姐さんが家で作ってくれたパウンドケーキが好き……ぐすっ……あれが食べたくて、私とエリス一生懸命宿題頑張ったんだよ……ひくっ……だからっ」
笑顔が、もう保てなかった。
顔がぐしゃぐしゃに崩れて、嗚咽が喉を突き破った。言葉にならない。伝えたいことはまだたくさんあるのに、声が、もう形にならなかった。
もっといっぱい一緒にいたい。またパウンドケーキが食べたい。抱きしめてほしい。エリスと三人で、また一緒に暮らしたい。
「——だからお願い、行かないでっ」
掠れた声で、懇願した。
虫の鳴くような声だった。情けなくて、弱くて、小さくて。それでも——持てる全部を込めた。
返事は、なかった。
姐さんの体が——少しずつ、冷たくなっていくのがわかった。鱗に触れた手のひらから、温もりが引いていく。
息の音が、聞こえなくなった。
顔を上げた。
あの金色の瞳に——もう、光は宿っていなかった。
開いたまま、何も映していない目。さっきまで私を見下ろしていた目。怒りに燃えていた目。笑っていた目。泣いていた目。全部——全部、もう動かなかった。
「——……姐、さん」
呼んだ。返事はない。
もう一度呼んだ。返事はない。
鱗に覆われた姐さんの顔を、両腕で抱きしめた。焼けた右腕が悲鳴を上げたけれど、そんなものはもうどうでもよかった。冷たい鱗に頬を押し当てて、声を上げて泣いた。
どれくらいそうしていたのか、わからない。
遠くから足音が近づいてきた。複数の足音。統制の取れた、軍靴の音。
特殊部隊と名乗る人間たちが、私の周りを取り囲んだ。誰かが肩に手を置いて、離れるよう促す。
私を——姐さんから、引き剥がそうとしていた。
嫌だった。
振り払った。掴まれた腕を振り解いて、姐さんの鱗をもっと強く掴んだ。指が白くなるほど力を込めて、離さなかった。
「いやだっ……いやだぁっ」
泣き叫びながら、しがみついた。何を言われても、誰に引っ張られても、この手だけは離さなかった。
力尽きるまで——離さなかった。
——こうして、本当の意味で『リッパー事件』は解決した。
多くの傷跡と後悔を残して——幕を、閉じたのだった。




