第2話
翌朝。
神城山は朝霧に包まれていた。
葉の先から落ちる雫が、静かに土へ染み込んでいく。
鳥の声。
木々を揺らす風。
森は、いつもの朝を迎えていた。
蒼牙は朝の千本の素振りを終えると、木刀を持って白玄のもとへ向かった。
白玄は桜の着物の帯を締め直していた。
「じっとしてなさい」
「だって苦しいんだもん」
そこへ蒼牙がやってくる。
白玄が、蒼牙に気づいて振り返る。
「今日は木刀はいらないわ」
「え?」
蒼牙は手にした木刀を見る。
「刀、振らないの?」
「昨日言ったでしょう」
白玄は立ち上がった。
「今日から、生きる術を教える」
蒼牙は少し考え、木刀を置いた。
桜が嬉しそうに駆け寄ってくる。
「兄さん、今日は私も修行だよ!」
「桜も?」
「うん!」
三人は朝霧の森へ入っていった。
しばらく歩いたところで、白玄が足を止める。
「今日は『見る』修行よ」
蒼牙は首を傾げた。
「見る?」
「そう」
白玄は森を見渡す。
「剣を振るう者にとって、見ることは大切な力よ」
「敵の動きだけではないわ」
「風」
「草」
「木」
「鳥」
「水」
「すべてを見るの」
蒼牙は森を見回した。
「それだけ?」
「ええ」
白玄は桜を見る。
「桜」
「はい!」
「兄さんから隠れてごらんなさい」
「分かった!」
桜は嬉しそうに笑うと、森の奥へ駆けていった。
蒼牙はその姿を目で追う。
木々の間を抜ける。
一度、振り返る。
そして――
姿が消えた。
「……?」
蒼牙は目を凝らす。
どこにもいない。
白玄は静かに言った。
「桜は気配を隠すのが得意なの」
「簡単には見つからないわ」
蒼牙は森を見回した。
「じゃあ、どうすれば……」
「探すのではなく、見るのよ」
「桜だけを見るんじゃない」
「森を見るの」
蒼牙は頷いた。
木。
葉。
岩。
草。
風。
鳥。
一つずつ目を向けていく。
しかし――
見つからない。
しばらくして、森の奥から声がした。
「兄さん、ここだよ」
蒼牙が振り返る。
誰もいない。
「……まただ」
桜の声が笑っている。
蒼牙は唇を噛んだ。
それでも諦めず、森を見続けた。
数日後。
蒼牙は同じ森に立っていた。
桜の姿は、また消えている。
蒼牙は焦らなかった。
風を見る。
葉を見る。
枝を見る。
森全体を見る。
右から風が吹いている。
木々の葉が、一斉に左へ揺れている。
だが――
一か所だけ。
あの木の葉だけが、揺れていない。
蒼牙は足を止めた。
「……あそこ」
ゆっくり近づく。
何も見えない。
それでも蒼牙は手を伸ばした。
すると――
空気が揺らいだ。
桜の姿が浮かび上がる。
「わっ!」
桜が驚いて飛び退いた。
蒼牙は目を丸くする。
「いた……!」
桜は頬を膨らませた。
「見つかった……。」
白玄が静かに二人のもとへ歩いてくる。
「どうして分かったの?」
蒼牙は木を見上げた。
「風は右から吹いていた」
「あの木だけ、葉が揺れてなかったから」
白玄は小さく頷く。
「そう」
「桜を見つけたんじゃない」
「森の違いに気づいたのよ」
蒼牙は黙って森を見渡した。
同じ森なのに。
昨日までとは、少し違って見える。
桜が笑った。
「でも、次は見つからないよ!」
「また隠れるの?」
「うん!」
蒼牙も笑う。
「じゃあ、また探す」
「負けないからね!」
「俺も負けない」
二人は顔を見合わせた。
それからの日々。
桜は森の中へ姿を消した。
蒼牙は探した。
見つける日もあった。
見つけられない日もあった。
桜が透明になる場所を変える。
木の上。
岩陰。
草むら。
水辺。
時には、風の流れさえ利用した。
蒼牙も少しずつ変わっていった。
葉の揺れ。
枝の向き。
踏まれた草。
鳥の飛び立つ方向。
水面の波紋。
小さな違いを見つけるたび、桜を探す。
そして桜も負けなかった。
「今日は見つけられなかったね、兄さん!」
「明日は見つける」
「じゃあ、もっと上手に隠れる!」
二人は競い合うように、互いの力を磨いていった。
夏が来た。
汗だくになりながら森を歩いた。
秋。
落ち葉の音に耳を澄ませた。
冬。
雪の上に残された小さな跡を探した。
春。
若葉の揺れを見つめた。
一年。
蒼牙は毎日、森を見続けた。
そして――
修行を始めて一年。
春の森。
若葉が風に揺れている。
蒼牙は森の中を歩いていた。
桜は、またどこかに隠れている。
「兄さん、今日は絶対見つからないよ」
木の上から声がした。
蒼牙は笑った。
「そうか」
周囲を見る。
風。
葉。
枝。
鳥。
草。
森全体を見る。
桜を探す。
けれど――
今日は、なかなか見つからない。
蒼牙は焦らなかった。
目を閉じる。
風の音を聞く。
鳥の声。
葉の擦れる音。
そして――
「……あれ?」
蒼牙が目を開く。
少し離れた地面。
落ち葉の中に、小さな穴があった。
だが、それだけではない。
近くの草が、わずかに倒れている。
その周囲には、小さな足跡。
蒼牙はしゃがみ込んだ。
「桜じゃない……」
木の上から、桜が降りてくる。
「何?」
蒼牙は穴を指差した。
「ここ、何かいる」
桜もしゃがみ込む。
二人で覗き込む。
穴の奥から――
「……きゅっ」
小さな声がした。
桜の目が大きくなる。
「なに?」
蒼牙がそっと覗き込む。
そこには、生まれたばかりの小さな狸たちが身を寄せ合っていた。
その奥には、母狸。
警戒するように二人を見つめている。
桜が小さな声で言った。
「赤ちゃん……」
蒼牙も笑った。
「ああ」
二人はそれ以上近づかなかった。
少し離れた場所へ座り、静かに見守る。
やがて母狸が子狸たちへ鼻を寄せる。
桜が嬉しそうに笑った。
「かわいいね」
「ああ」
春の風が森を抜けていく。
若葉が揺れる。
蒼牙は森を見渡した。
一年間。
桜を探し続けてきた。
けれど、いつの間にか――
桜だけではなく、森そのものを見るようになっていた。
白玄は少し離れた場所から、二人を静かに見つめていた。
そして、何も言わずに微笑んだ。
蒼牙はもう一度、小さな命へ目を向けた。
森の中には、今日もたくさんの命が生きている。
その小さな変化に気づけること。
それもまた――
守るための力なのだと。
蒼牙はまだ知らなかった。
ただ。
桜と並んで、小さな命を見つめていた。
春の陽射しが、二人を静かに照らしていた。




