第1話 ――残された朝
玄真がこの世を去ってから、半年が過ぎていた。
神城山は季節を巡り、山肌は紅く色づき始めている。
あの日、炎に包まれた森にも新しい命が芽吹き、鳥たちは何事もなかったかのように空を舞っていた。
それでも蒼牙の心だけは、まだあの日に置き去りのままだった。
乾いた木刀の音が、朝霧の中へ響く。
パシン。
パシン。
パシン。
まだ幼さの残る少年が、一心に木刀を振っている。
神城蒼牙。
十歳。
汗が額から流れ落ちる。
息は荒い。
腕は悲鳴を上げていた。
それでも木剣は止まらない。
「九百九十八……。」
一振り。
「九百九十九……。」
また一振り。
「――千!」
最後の一振りを振り下ろした瞬間、大きく息を吐く。
膝が震える。
それでも倒れない。
木刀を握る手だけは離さなかった。
蒼牙は静かに目を閉じる。
頭の中へ、一人の姿を思い浮かべた。
祖父・玄真。
刀を握る手。
踏み込む足。
呼吸。
視線。
最後に見た、あの大きな背中。
半年もの間、蒼牙は毎朝その姿を思い浮かべながら木刀を振り続けてきた。
忘れたくなかった。
玄真の姿を。
玄真の生き方を。
玄真が最後に見せた、守るための剣を。
少しでも思い出せなくなるのが怖かった。
だから振る。
「あれ……違う。」
もう一度構える。
「じいちゃんは、もっと自然だった。」
また振る。
「今の足じゃない。」
もう一度。
「呼吸も違う……。」
何度も。
何度も。
違いを探しては振り直した。
玄真に近づきたかった。
ただ、それだけだった。
「まだ遅いわね。」
静かな声が響く。
白銀の髪を揺らしながら、白玄が歩いてきた。
「母さん。」
蒼牙は木刀を下ろす。
白玄は木刀ではなく、蒼牙自身を見ていた。
「肩に力が入りすぎ。」
「はい。」
「足も止まっている。」
「はい。」
「玄真なら、その力みはしない。」
蒼牙は悔しそうに唇を噛んだ。
それでも言い返さない。
白玄は厳しい。
けれど、その厳しさが自分を想ってのものだと知っていた。
少し離れた場所から、小さな足音が近づいてくる。
「兄さん!」
桜だった。
五歳になったばかりの小さな妖狐は、両手いっぱいに木の実を抱えて駆け寄ってくる。
「また千本やってるの?」
「今日は最後まで振れた。」
「ほんと?」
「昨日は九百本くらいでふらふらだったのに?」
蒼牙は少し照れくさそうに笑う。
「今日は倒れなかった」
「すごい!」
桜は満面の笑みで拍手した。
「玄真じいちゃんも喜ぶね!」
その言葉に蒼牙は一瞬だけ空を見上げる。
「……そうかな」
「うん!」
「兄さん、毎日頑張ってるもん!」
その無邪気な笑顔に、蒼牙も自然と笑っていた。
玄真が亡くなってから半年。
ようやく笑えた朝だった。
白玄はそんな二人を静かに見つめる。
(少しだけ……前へ進めたわね。)
心の中でそう呟く。
けれど、その表情はすぐに師の顔へ戻った。
「休憩は終わり」
「はい!」
「兄さん、頑張って!」
蒼牙はもう一度木剣を握る。
白玄は静かに口を開いた。
「蒼牙」
「はい」
「玄真は、お前に剣を遺した。」
蒼牙は黙って頷く。
「私は、お前に生きる術を教える」
「生きる術?」
「そう」
「剣だけでは、人は守れない」
「見ること」
「感じること」
「隠れること」
「守ること」
「命を繋ぐこと」
「それらすべてを学んで、初めて剣は人を守る力になる」
蒼牙は真っ直ぐ白玄を見つめた。
まだ意味は分からない。
それでも、この半年で一つだけ分かったことがある。
白玄の言葉は、いつも生きるためにあるということを。
「教えてください」
迷いのない返事だった。
白玄は小さく頷く。
「明日から修行を始める。」
「はい!」
「覚悟しておきなさい」
「はい!」
その返事は、山へ力強く響いた。
秋風が神城山を吹き抜ける。
玄真が命を懸けて守った山。
白玄が二人を育てる山。
そして、いつか蒼牙が守りたいと願う山。
蒼牙はもう一度、木刀を構えた。
「お願いします、母さん」
白玄は静かに頷く。
祖父を失ってから半年。
立ち止まっていた少年は、ようやく自分の足で一歩を踏み出した。
その翌朝から、白玄による本当の修行が始まった。




