賑わう市場と忍び寄る影
ルーナたちが市場へ足を運ぶと、そこには三年前にも増して活気に満ちた光景が広がっていた。
白い石畳の上を人と馬車が絶え間なく行き交い、軒先には赤や青の天幕が風に揺れている。
焼き魚の煙、香草の匂い、蜜パンの甘い香り――それらが混ざり合い、懐かしくも賑やかな空気を作り出していた。
「やっぱり王都の市場は別格ね!」
「左様でございますね、お嬢様。どこから参りましょうか?」
「そうね……」
ナミの問いかけに、ルーナは顎に手を当てて思案する。
並び立つ無数の露店。
どこから見て回ろうか、迷うほどだ。
『ぼく、お魚食べた~い!』
「こらこら、さっき朝のお魚を食べたばかりじゃないの」
『てへっ。でもまたお腹空いちゃった!』
とぼけたように舌を出すアルスに、ルーナは苦笑を漏らす。
「しょうがないわね。それじゃあまずは魚屋に行ってみましょうか」
『わーい!』
人混みの中を進むと、すぐにひときわ賑わう一角が目に入った。
看板には、背びれの曲がったシャチがコミカルに描かれている。
「あれって……!」
『ぼく、だよね?』
「参りましょうか」
「そうね、行ってみましょう」
近づいてみれば、そこは三年前にも立ち寄ったあの魚屋だった。
「へいらっしゃい! ――おや、あなた様は名誉騎士様と守護獣様ではございませんか!」
店主の声に、人だかりの視線が一斉にアルスへと向く。
「あれが守護獣のアルス様……!」
「確かにデカいな!」
「でもなんだか可愛いわね」
『えへっ、ぼく有名だね!』
嬉しそうに身体を弾ませるアルス。
その様子に、周囲から小さな笑いが起こる。
「ずいぶん繁盛しているみたいね」
「守護獣様のおかげですよ! 大好物だって売り込んだら、もう飛ぶように売れましてね!」
どうやらアルスの人気にあやかって、大きく商売を伸ばしたようだ。
「それはよかったわ。アルスも喜んでいると思う、――ね?」
『うん!』
「……しかし、アルス様の名を無断で使うのは感心いたしませんね」
冷静なナミの指摘に、ルーナは苦笑しながら肩をすくめた。
「まあいいじゃない。アルスも喜んでいるんだし」
「お嬢様がよろしいのであれば、わたくしから申すことはございませんが……」
そうしてルーナは褐色鱒をいくつか買い求め、その場を後にする。
「アルス、お魚よ」
手にした褐色鱒を放り込むと、アルスは嬉しそうにそれを口で受け止めた。
『うん! 美味しい! もっとちょうだい!』
「はいはい。でもほどほどにしてよ?」
『分かってるよ!』
そんなやり取りに、ナミも自然と頬を緩める。
――だが。
ふと、視線が止まった。
人混みの向こう。
ほんの一瞬、黒い影のようなものが視界の端を横切った気がした。
「…………」
ナミはわずかに目を細める。
だが次の瞬間には、その気配は跡形もなく消えていた。
(……いる)
確信に近い感覚。
昨夜と同じ――いや、それ以上に近い。
無意識に、ルーナの一歩前へと出る。
「ナミ?」
不思議そうに声をかけるルーナ。
「……いえ、少々人が多いようですので。お嬢様の御身に障りがあってはなりませんから」
何でもないように言いながらも、その視線は人波の奥を探っていた。
――そして。そのとき。
「……姉さん」
不意に、すぐ傍から声がかかった。
「――っ!?」
ナミは反射的に振り返った。
そこに立っていたのは――黒づくめの女。
人混みの只中だというのに、まるでそこだけ空気が切り離されたかのように、静かに佇んでいる。
「あなたは……!?」
(気配がない……この距離まで、わたくしが気付かないなど――!)
瞬時に間合いと逃走経路を測り、ナミはメイド服のスリットの奥へ手を滑らせた。
――だが。
「……無駄だよ」
低く落とされた一言。
次の瞬間、黒づくめの女の視線が、ナミを射抜いた。
「……っ」
動けない。
刃を抜くことも、声を上げることも許されない。
ただ、その瞳に縫い止められたように、体が硬直する。
(……何者……?)
暗殺者。
それも、ただの手練れではない。
だがそれ以上に――
(……この感覚、どこかで……)
胸の奥をかすめる、説明のつかない違和感。
既視感にも似た、奇妙な引っかかり。
ナミが思考を巡らせた、そのときだった。
「これ以上、無理しないほうがいいよ」
女は一歩だけ距離を詰める。
――そして、耳元で囁いた。
「……姉さん」
「――!」
息が詰まる。
その呼び方。
その声音。
あり得ないはずの可能性が、脳裏をよぎる。
「あなたは、まさか――」
問いかけは、最後まで紡がれなかった。
次の瞬間には、黒づくめの女の姿は――消えていた。
残ったのは、人々のざわめきと、何事もなかったかのように流れる市場の喧騒だけ。
「…………」
ナミはその場に立ち尽くす。
(今のは……夢……? いえ、違う……確かに……)
胸の奥が、ざわつく。
否定しきれない確信が、ゆっくりと形を成していく。
「あの女……まさか……そんなことが……」
「――ナミ!」
はっとして振り向く。
ルーナが、心配そうな顔でこちらを見ていた。
「……っ。わたくしとしたことが、お嬢様のお声に気づかぬとは……不覚でございます」
「そんなことはいいの。それより今の、何だったの?」
真っ直ぐな瞳。
隠し通せる相手ではない――だが。
「……いえ、何でもございません」
ほんのわずかな間を置いて、ナミは首を振る。
「ですが――今後は、わたくしから離れないでくださいませ」
その声音には、これまでにない強い意志がこもっていた。
「……分かったわ」
ルーナは小さく頷く。
だが、その胸中にあるものまでは、知る由もない。
――王都に潜む闇は、確かにその姿を現し始めていた。
*
市場の喧騒から離れた、建物の屋根の上。
クゥは音もなく着地し、そのまま動かずに立ち尽くしていた。
「……っ」
胸の奥が、わずかにざわつく。
さきほどの一瞬。
目の前にいた、あの女――ナミ。
「……姉さん、か」
無意識に零れたその言葉に、クゥは自分で眉をひそめる。
「何やってるんだろ、ボク……」
任務中だというのに。
感情を挟むなど、あってはならない。
それなのに。
あの瞬間、確かに知っていると思った。
声も、気配も、立ち方も。
何もかもが、どこか懐かしかった。
「……違う」
小さく首を振る。
「関係ない」
過去も、記憶も、全部。
今の自分には必要ない。
「今のボクは――シグナ様の駒」
その言葉で、自分を縛るように。
胸の奥に残る違和感を、押し殺す。
――そのとき。
「随分と、楽しそうでしたね」
背後から、静かな声が落ちた。
「……っ」
振り返ることなく、クゥは膝をつく。
「シグナ様」
気配だけで分かる。
この場にいる支配者。
「標的との接触。許可した覚えはありませんが?」
責めるでもなく、ただ事実を告げる声。
だが、それだけで十分だった。
「……申し訳ありません。ですが、あのメイドは予想以上に鋭く――」
「言い訳は求めてません」
短く遮られる。
空気が、わずかに冷える。
「で、どうでした?」
試すような問い。
クゥは一瞬だけ沈黙し、そして答える。
「……排除は可能です。ただし、守護獣の存在が厄介です」
「そうですか」
淡々とした返答。
だがその奥に、わずかな興味が滲む。
「ならば、もう少し観察を続けなさい」
命令。
絶対の。
「……はっ」
頭を垂れる。
その姿勢のまま、クゥは静かに目を伏せた。
(観察……か)
ならば。
もう一度、近づくことになる。
あの女に。
「…………」
わずかに、胸がざわつく。
だが、すぐに押し込めた。
「次は――迷わない」
そう呟いた声は、風に紛れて消えていった。




