謎の影
*
それからルーナたちは、三年前にも利用した《宿屋サンフラワー》に宿を取ることにした。
「やっぱり、馴染みのある宿が一番よね」
「左様にございます」
「――アルスは外でお利口にしていてね」
『うん、分かった』
アルスを宿の前に待機させ、ルーナはナミとともに中へ入る。
「ようこそ、宿屋サンフラワーへ~。――あら、あなたは……!」
成長したルーナの顔を見て、女将ははっと息を呑み、口元を押さえた。
「またしばらく王都に滞在するの。部屋は空いているかしら?」
「はい、もちろんです。……ですが、名誉騎士のルーナ様が、うちのような宿でよろしいのでしょうか?」
戸惑いがちに視線を落とす女将に、ルーナは柔らかく微笑んだ。
「ここがいいの。だってこの宿、とても温かいんですもの」
「そう言っていただけて光栄です。それでは、二階のお部屋へどうぞ~」
鍵を受け取り、ルーナはナミとともに階段を上がる。
案内された部屋は、三年前と変わらぬ佇まいだった。
明るい木目の家具に、清潔な白い寝具。窓辺には小さな鉢植えの花が並び、柔らかな光を受けている。
「ここも変わらないわね……。なんだか、ほっとするわ」
懐かしさに胸を緩めるルーナ。
――だが。
ナミの様子がおかしいことに、彼女は気づいた。
ナミは無意識のように、部屋の隅や窓の外へと視線を巡らせている。
「どうしたの、ナミ?」
「……いえ。気のせいでございます。少々、気が張りすぎているだけかと」
取り繕うようなその言葉に、ルーナは小さく首を傾げた。
「そう? 無理はしないでね。ナミはずっとわたしを守ってくれているんだもの、疲れているでしょう?」
「……ええ。それでは、お言葉に甘えまして」
そう答えながらも、ナミの視線は一度だけ、窓の外へと向けられた。
まるで――そこに何かがいるかのように。
*
その夜。ナミはひとり、宿の外に出て少し歩いていた。
人気の少ない通りに、夜の静寂が広がっている。
「……やはり、誰かが我々を見ている」
低く呟き、ゆっくりと周囲を見渡す。
人影はない。気配も、掴めない。
――だが。
確かにいる。
肌を刺すような、わずかな違和感。
「……一体、何者」
静かに息を整え、ナミは構えを崩さない。
「お嬢様に仇なす者であれば――このナミ、容赦はいたしません」
その声音は、普段の穏やかさとはまるで違っていた。
「……そこにいますね」
ナミの声が、静かな夜に落ちる。
その瞬間。
わずかに――空気が揺れた。
気配が、動く。
(やはり……!)
ナミが一歩踏み出した、そのとき。
「……やめたほうがいいよ」
不意に、背後から声がした。
「――!」
振り返る。
だが、そこには誰もいない。
ただ、風が一瞬だけ通り抜けたような気配だけが残る。
「……今のは……」
女の声。
だが、その響きに、わずかな違和感があった。
――どこか、懐かしいような。
「…………」
ナミは目を細める。
しかし、それ以上の気配はもう感じられなかった。
翌朝。
ナミは主であるルーナの目覚めを、静かに見守っていた。
「ん……っ、ふあ~……。よく寝たわ~」
ベッドの上で大きく伸びをし、あくびをこぼすルーナ。
その無防備な姿に、ナミは思わず柔らかな笑みを浮かべる。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、ナミ。今日は何をしようかしらね」
屈託のないその言葉に、ナミは一瞬だけ視線を伏せた。
――昨夜のことが、脳裏をよぎる。
(狙われている可能性は高い。ですが、確証には至っていない……それに)
あの気配。
ただの敵意とも、暗殺者のそれとも違う、妙な引っかかり。
「――どうかしたの、ナミ?」
「いえ、なんでもございません。本日は市場へ足を運ばれてはいかがでしょう。アルス様もお喜びになられるかと」
「ナイスアイデアだわ! さすがナミね!」
ぱっと表情を輝かせるルーナ。
その様子を見つめながら、ナミは胸の内で静かに決意する。
(お嬢様を巻き込むわけにはいきません)
ゆっくりと、指先に力がこもる。
(この汚れは――わたくしひとりで引き受ければいい)
ぎゅっと胸元で拳を握りしめ、ナミは改めて誓った。
何があろうとも、ルーナを守り抜くと。
*
ナミに身支度を整えてもらったルーナは、朝食を済ませると宿の外へ出て、アルスと合流した。
『おはよう、ルーナ!』
「おはよう、アルス」
嬉しそうに大きな顔をすり寄せてくるアルスを、ルーナはくしゃくしゃと撫でてやる。
『ねえルーナ、昨日の夜、変な人がいたよ?』
「変な人?」
ルーナが首を傾げる。
『うん。なんかね、全身まっ黒で、こそこそしてた』
「全身まっ黒……それ、あなたのことじゃないわよね?」
『まさか! ぼくじゃないよ!?』
慌てて胸びれをぱたぱたと動かすアルス。
その様子に、ルーナはくすりと笑った。
――だが。
「ナミ、昨日の夜、何か変わったことはなかったかしら?」
何気ない問いかけ。
けれど、その言葉にナミの肩がほんのわずかに揺れた。
「……お嬢様のご心配には及びません。何があろうとも、わたくしがお守りいたしますので」
即座に返されたその言葉は、いつも通りでありながら、どこか硬い。
「そうね。ナミがいてくれると心強いわ」
屈託のない笑顔を向けるルーナに、ナミは小さく息を吐いた。
――気づかれては、いない。
「それじゃあ、今日は市場へ行きましょうか」
『ぼくも一緒に行っていいんだよね!』
「もちろん。アルスがいないと始まらないわ」
『わーい!』
嬉しさを隠しきれず、巨体を弾ませるアルス。
その大きな影を連れて、ルーナたちは賑わう市場へと足を向けた。
――その背を、誰かが見ているとも知らずに。




