前触れ
「――というわけなの。わたし、王都に行くことになっちゃったみたい」
宿屋|《マグロ一本釣り亭》で先ほどの出来事を報告すると、ティノが不安げな目で詰め寄ってきた。
「本当に行くの……?」
その小さな頭を、ルーナはそっと撫でる。
「安心して、ティノくん。王都なら三年前にも行ったことがあるし、多分すぐ戻ってこられるわ」
「本当……?」
「ええ、約束する」
「…………」
それでもティノは、小さな獣耳をしょげさせたまま俯いている。
その様子に、女将がやれやれと肩をすくめた。
「ティノ。ルーナちゃんは約束を守る子だよ。二年前だって、セレーネブルーからちゃんとみんなを連れて帰ってきてくれただろ?」
「女将さん……」
しばらく迷うように視線を泳がせたあと、ティノはそっとルーナの手を握った。
「……約束、だよ」
「ええ、約束っ」
指先にこもる小さな力に、ルーナは柔らかく微笑む。
それから彼女は自室へ戻り、机に向かった。
「お父さまにも伝えなくっちゃ」
さらさらと筆を走らせ、手紙を書き上げる。
封をしたそれを手に、ルーナが次に向かったのはギルドだった。
「これをダックリバー家に届けてもらえるかしら?」
「かしこまりました。責任をもってお送りいたします。……王都に呼ばれることになったのですよね。どうかご無事で」
「……もう情報が行き渡ってるのね。さすがはギルドだわ」
ルーナは小さく苦笑し、それから真っ直ぐに答えた。
「ええ。また必ず、無事に帰ってくるわ」
手紙を託したあと、ルーナは漁師や市場の商人たちなど、ポルタで世話になった人々へ一人ひとり挨拶に回った。
――すべてを終えた頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。
「ふぅ……まさかこんな大事になるなんてね」
宿に戻り、ベッドに突っ伏すルーナ。
ナミは静かに歩み寄り、いつもの調子で一礼した。
「お疲れ様でございます、お嬢様」
「ナミも来てくれるのよね?」
「もちろんでございます。わたくしナミは、お嬢様の行くところ、どこまでもお供いたします」
その声音には、一点の迷いもない。
「心強いわ。いつもありがとう、ナミ」
「恐れ入ります」
ナミは恭しく頭を下げ、それから実務的な口調に戻った。
「それでは明日に備えて、どうかゆっくりお休みくださいませ。お荷物の準備はこちらで整えておきますので」
「ええ、そうさせてもらうわ」
こうしてルーナは、ナミに準備を任せ――王都へ向かう明日に備え、静かな休息へと身を委ねた。
翌朝早く。ルーナは、窓を激しく叩く音で目を覚ました。
「……何かしら?」
半ば寝ぼけ眼のまま窓を開けると――そこには、アルスの大きな顔がぬっと迫っていた。
『ルーナ! 港にシャチのみんなが来てる!』
「なんですって!? アルス、今すぐ連れていってちょうだい!」
『もちろん!』
次の瞬間。
ルーナは着の身着のまま窓枠を蹴り、アルスの背へと飛び乗っていた。
アルスはそのまま、宙を泳ぐように朝の町を駆け抜けていく。
「お嬢様、そのようなお姿ではお風邪を――……ああ、もう行ってしまわれましたか」
引き止めようとしたナミの声は、むなしく朝空に溶けた。
やがて漁港へ到着したルーナの目に、人だかりが飛び込んでくる。
「おう、ルーナの嬢ちゃんか! 守護獣様のお仲間が来てるぞ!」
「ええ、アルスから聞いているわ。道を開けてちょうだい」
人波をかき分けて前に出た瞬間――ルーナの視界いっぱいに、黒い背が広がった。
海面を埋め尽くす、シャチの群れ。
幾つもの背びれが朝の光を受け、静かに波を割っている。
「あなたたち……どうしてここに……?」
ルーナがそっと身を屈めると、一頭のシャチが水面から顔を出した。
「キュウっ」
『あ、リリだ!』
「やっぱり……セレーネブルーの子たちなのね」
二年前、彼女たちを導いたシャチ――リリ。
その隣から、さらに大きな老いた雌がゆっくりと浮上する。
「キュルルルル」
「あなたは……グランマ。二年ぶりね」
ルーナが優しく頬を撫でると、アルスが通訳するように声を上げた。
『ルーナがここを離れるの、知ってるみたい。だから、みんな心配して来たんだって』
「……そうだったの」
一瞬だけ。ルーナの胸に、小さな影が落ちる。
だが彼女はすぐに、いつものように微笑んだ。
「安心して、みんな。用事が済んだら、わたしは必ずこの海に帰ってくるわ。約束する」
「キュウ……?」
「それまで、少しだけ待っていて。わたしも――精一杯がんばるから」
そう言ってルーナは、順にシャチたちの額へ口づけていく。
その温もりを受け取るように、群れは静かに尾を返した。
黒い背びれたちが、朝の海へと溶けていく。
「……まさか、シャチたちにまで心配されるなんてね」
『ルーナ?』
「ふふ。これはますます気合いを入れて、さっさと用事を済ませないとね!」
『うん! それでこそルーナだよ!』
「――お嬢様~!」
背後から、やや息を切らしたナミの声。
「お嬢様、そのような格好では、はしたのうございますよ」
「あ……っ」
そこでようやくルーナは、自分が水色のネグリジェ姿のままだと気付いた。
「これは失礼したわ……レディ失格ね」
「さあ、すぐお着替えに戻りますよ」
半ば強制的に背を押され、ルーナは宿へと引き返す。
『待ってよルーナ~!』
もちろん、アルスも慌ててその後を追いかけていった。




