成長したルーナとアルス
セレーネブルー発見から二年後。
ポルタ沖の漁場に、異様な影が落ちていた。
「ヒドロクラーケンだ!!」
「面舵一杯、撤退だ!」
だがその叫びを嘲笑うかのように、海面が裂ける。
――ぬらり、と。
海中から現れたのは、船体と同等の長さを持つ触手。
それが幾本も、幾本も、波を割りながら漁船へと絡みつく。
触手の先端は裂け、粘液を滴らせた口が不気味に開閉していた。
ヒドロクラーケン。
海を根城にする上位魔物。
「焼け! 火を撃て!」
護衛魔術師の火球が炸裂する。
だが触手は焦げるだけで、むしろ怒りを孕んだように締め付けを強めた。
船体が軋み、悲鳴をあげる。
「持たねえぞ……!」
「終わりだ……!」
絶望が海上を覆った、その時だった。
――海が割れた。一直線に、蒼い奔流が迫る。
「あれは……!」
黒と白の巨影。
その頭上に立つ、藤色の少女。
「名誉騎士ルーナ様だ!!」
海風に揺れるポニーテール。
二年の歳月で筋肉が程よく付きつつも、女性らしい曲線を描く体つき。
青いマントから見え隠れする茶褐色のタイトチュニックとパステルブルーのレギンスが、その細く美しいラインを引き立てる。
銀の笛と七色の光貝が陽光を弾く。
彼女は、ただ立っているだけで絵になる。
「お待たせ」
静かに、しかし揺るがぬ声。
「ここからは――わたしたちの海よ」
「キュイィ!」
アルスの噴気が白く弾ける。
ルーナは両腕を広げた。
「――アクア・レーザー」
背後に浮かぶ水球が、夜空の星座のように整列する。
次の瞬間、蒼い光線が幾筋も走った。
水が光となり、刃となる。
触手を正確に、寸分の狂いなく貫く。
水飛沫が宝石のように舞い上がった。
ヒドロクラーケンが軋み声をあげ、漁船を解放する。
だが戦いは終わらない。
「アルス」
『準備できてる!』
銀笛が高く鳴る。
その音は合図であり、呼吸であり、絆そのもの。
ルーナを海面に残してアルスが潜る。
水中を裂く速度は矢の如く。
次の瞬間――海面が爆ぜた。
巨体のタックルが、海底に潜む本体を突き上げる。
ヒドロクラーケンの本体が、水柱と共に露出した。
粘膜が光を反射する。
「今よ!」
ルーナが宙へ舞う。
アルスに放り上げられた身体は、恐怖を知らない。
海風が彼女の銀髪ポニーテールを翻す。
「アイス・ジャベリン!」
空中で形成された氷槍が、流星群のように降り注ぐ。
氷が軟体を穿ち、内部から凍らせる。
水蒸気が白く広がる。
そして――
『終わりだ!』
アルスが海面を裂いて跳躍する。
七メートル近い身体が宙に浮かび、重力を乗せて落下。
――アトミック・インパクト。
轟音。
衝撃波。
海がドーム状に弾け、光を散らす。
水しぶきの幕が晴れた時。
そこにあったのは、沈黙だけだった。
ヒドロクラーケンは動かない。
ルーナがゆっくりと手を振る。
その仕草は、まるで舞台の終幕。
漁師たちの歓声が、遅れて海に響いた。
「すげぇ……」
「まるで舞を見てるみたいだった……」
ルーナは魔石を取り出す。
スイカ大の青い結晶が、陽光を反射した。
『わーっ、大きい~!』
「よくやったわ、アルス。これは美味しい収穫だわ!」
アルスの頭をワシワシと撫でて喜びに浸るルーナ。
しかし。
触手の根元に、異物。
くすんだ金色の枷。
黒い魔石が埋め込まれた、忌まわしき使役具。
ルーナの瞳が静かに細まる。
「……これは偶然じゃない」
彼女の声は、もはや少女のものではない。
「誰かが、海を使おうとしている」
空は晴れ渡っている。
だがその青さは、どこか冷たい。
ヒドロクラーケンの魔石をギルドに提出し、報酬を受け取ったルーナは、ポルタの拠点――マグロ一本釣り亭へと戻った。
「あら、お帰りルーナちゃん」
「ただいま、女将さん」
店の扉を開けた瞬間、焼き魚と潮の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
戦いの緊張が、ようやくほどけていくのをルーナは感じた。
あれからも住み込みで働き続けているティノが、厨房から飛び出してくる。
「ルーナさん! ヒドロクラーケンと戦ったって、本当なの……!?」
この二年で背も伸び、肩つきも少し広くなったティノ。その目は昔と変わらずまっすぐだった。
「ええ。でもアルスと一緒に、ちゃんとやっつけたわ。心配してくれてありがとね」
ルーナはそっとティノの手を取り、微笑みかける。
「さすがルーナさんとアルスさんだ……! エルザさんが聞いたら、自分のことみたいに自慢するんだろうな……」
「ふふ、きっとね。両手を腰に当てて胸を張る姿が目に浮かぶわ」
誇らしげに笑うエルザの姿を思い浮かべ、ルーナは小さく笑った。
セレーネブルーの発見以降、刺激を受けたエルザは単身で冒険に出ている。
仲間はそれぞれの道を歩み始めていた。
「全く、あの娘は今ごろどこで何をしてるんだかねぇ」
「エルザさんなら大丈夫ですよ、女将さん」
「ええ。あの子、転んでもただじゃ起きないもの」
ルーナの言葉には確信があった。
仲間を信じる強さは、モルドの最期を見届けてからより一層深まっている。
「母親としては心配もするけどねぇ。でも……信じられてるってのは、嬉しいもんだよ」
女将は照れくさそうに笑い、厨房へ戻っていった。
「オレも手伝いますっ」
ティノも後を追い、店内には包丁の音と湯気が満ちる。
その音を背に、ルーナは階段を上がった。
部屋に入ると、静けさが満ちている。
「……はあ」
簡素なベッドに身を預けると、戦闘の疲労がじわりと身体を包んだ。
だが同時に、胸の奥には確かな充実感もある。
「今回もお手柄でございましたね」
穏やかな声と共に、ナミがそっと水差しを差し出す。
「わたくしも、お嬢様のご活躍を誇りに思います」
「うふふ、誇られるだけの主人でいられるように、ちゃんと頑張らないとね」
ルーナの笑みは柔らかいが、その瞳の奥には揺るがぬ覚悟が宿っている。
『ぼくも、すごーくがんばったよ~!』
窓から覗くアルスの大きな顔。
二年前よりひとまわり大きくなった体躯、だが表情は相変わらず無邪気だ。
「ええ、アルスが一番の功労者よ」
窓を開け、ルーナはそっと彼の額に口づける。
塩と海風の匂い。
――ああ、帰ってきたのだ。
『えっへん!』
得意げに胸を張るアルスを見て、ルーナはくすりと笑う。
変わったものもある。
だが、変わらないものもある。
それが何よりの支えだった。
――けれど。
遠く、港の外れで、誰かが王家の紋章を掲げた旗を降ろしたことを。
静かな夜風が、王都の匂いを運び始めていることを。
この時のルーナたちは、まだ知らなかった。




