セレーネブルーに祝福を
海底洞窟から抜けた瞬間、アルスたちの前に広がったのは、どこまでも澄みきった海だった。
毒に濁っていた気配は微塵もなく、光は柔らかく、水は静かに揺れている。
『……元に戻ったんだね』
「ええ……そうね。本当に、何事もなかったみたいに」
ルーナはそう答えながらも、胸の奥で小さく息を吐いた。
(モルド……あなたは、ちゃんと役目を果たした)
その最期を思い出すと、胸が少しだけ痛む。
けれど同時に、不思議なほど穏やかな気持ちもあった。
(今度は……わたしが、あなたの想いを運ぶ番)
アルスがゆっくりと浮上を始めると、頭上に影が差した。
ティノが指を伸ばす。
『アルーナ号だ!』
アルスは尾びれに力を込め、一気に海面を目指した。
ティノも遅れまいと後に続く。
「「ぷはーっ!」」
勢いよく水面を割り、ルーナとティノが同時に息を吸い込む。
アルスも噴気孔から、短く潮を吹いた。
「お嬢様っ!」
「無事だったんだな! 島も、海も元通りなのさ!」
身を乗り出したナミとエルザの声に、ルーナは思わず微笑む。
「――ええ。ただいま」
その一言に、胸の緊張がほどけていくのを感じた。
船に上がると、ナミがすぐにタオルを差し出す。
「お嬢様、急いでお着替えを」
「ありがとう、ナミ」
ナミが手際よく世話を焼く間、ティノは気まずそうに背を向けた。
「配慮が足りませんでしたね」
「いえ、大丈夫よ」
乾いた服に包まれ、ルーナはようやく実感する。
――戻ってきたのだ、と。
「それで? 海の中はどうだったのさ?」
エルザの問いに、ルーナは一度だけ深く息を吸った。
「……話すわ。モルドが、何を選んだのかも含めて」
海底洞窟で起きたこと。
モルドの決断。
封印の行方。
すべてを語り終えたとき、甲板にはしばし沈黙が落ちた。
「……そんな……」
「ご無事で戻られたこと、何よりです」
「無事だったのは、みんなのおかげよ。アルスも、ティノくんも……そして、モルドも」
その名を口にした瞬間、ルーナは視線を伏せた。
一方で、アルスもどこか元気がない。
「……キュウ」
「アルス、どうしたのさ?」
エルザの指摘に、ルーナはすぐに気づいた。
「アルス」
『ぼく……途中から、何もできなかった』
自分を責めるような声。
「いいえ」
ルーナは迷いなく答え、アルスを抱き寄せた。
「あなたがいてくれたから、わたしは決断できたの。それは、誰にも代われない役目よ」
『……ホントに?』
「ええ。誇っていいわ」
アルスの目に、少しずつ光が戻る。
『……うん』
その様子を見届けてから、ルーナは静かに島の方を向いた。
「モルド……あなたは、もう独りじゃない」
手を組み、仲間たちも続く。
「あなたの想いは、確かに受け取ったわ」
やがて船が進み出すと、海面がざわめいた。
『……あ』
シャチの群れだ。
リリを先頭に、仲間たちが集まってくる。
『えへへ……』
アルスは一瞬、嬉しそうに応じるが――すぐにルーナの元へ戻ってきた。
その姿に、ルーナの胸がきゅっと締めつけられる。
(もしかしたら……)
だが、その考えは、アルスの言葉で打ち消された。
『ぼく、ルーナと一緒がいい』
迷いのない声。
「……そう。ありがとう、アルス」
『うん! ずーっと一緒!』
群れのシャチたちは、その様子を見届けるように、ゆっくりと距離を取った。
『またね』
アルスの声に、背びれが一つ、二つと応える。
「……ええ。またきっと」
煌めく海の上で、ルーナとアルスは肩を寄せ合い、静かに笑った。
――それは、失われたものを胸に抱きながら、それでも前へ進む者たちの、確かな始まりだった。
それからしばらくの間、アルーナ号はセレーネブルーの海を巡った。
だが、沈黙の島以外に新たな陸地はついに見つからなかった。
「……これで全部ですね」
「なんだか、拍子抜けなのさ……」
ナミの静かな報告に、エルザが後ろ手を組んで大きく息を吐く。
その一方で、ティノは胸元のペンダントを、そっと握りしめていた。
それに気づいたルーナが、声をかける。
「ティノくん……」
彼がセレーネブルーに求めていたもの――カワウソ族の楽園。
それが見つからなかったことを、ルーナは思い出していた。
けれど、ティノはすぐに顔を上げる。
その表情は、驚くほど穏やかだった。
「父さん、母さん、ミナ……。セレーネブルーは、本当にきれいだったよ」
「……それで、いいの?」
「いいって?」
きょとんとした顔で問い返すティノに、エルザが思わず口を挟む。
「お前、言ってただろ? カワウソ族の楽園を探しに来たって!」
「ちょっと、エルザ……」
「あっ……!」
ルーナにたしなめられ、エルザは慌てて口を塞ぐ。
だが、ティノは首を振り、柔らかく笑った。
「いいんだ。たとえ楽園がなくても……今のオレには、みんながいる」
「…………」
「それだけで、もう十分幸せなんだ」
「ティノくん……」
「うぅ、なんていいこと言うのさ……!」
感極まったルーナとエルザが、同時にティノの両脇から抱きついた。
「わっ、ちょ、ちょっと!?」
「もう、可愛いんだから!」
「探検少女、感動中なのさ!」
顔を真っ赤にしながらも抵抗しきれず、ティノは苦笑する。
「……まあ、いっか」
その様子を少し離れた場所から見守りながら、ナミは小さく息を吐いた。
(良き仲間――良き旅)
「お嬢様も、良い出会いに恵まれましたね。主人の幸福、メイド冥利に尽きます」
そう独りごちたナミが、ふと海を覗き込む。
「……おや?」
海中に、淡い光が揺れていた。
それはゆっくりと浮かび上がり、やがて七色に輝く貝殻の形を取る。
「お嬢様、ご覧ください」
「なに、ナミ?」
「――光貝だ……!」
ティノが駆け寄り、思わず手を伸ばす。
光はその掌へ、静かに舞い降りた。
「……オレのと、形が違う」
胸元のペンダントとは異なり、丸みを帯びた、どこか優しい形。
それを見て、エルザが目を輝かせる。
「これは大発見なのさ! これがあれば、セレーネブルーの存在を証明できる!」
「本当に……?」
「ああ! ティノ、お手柄なのさ!」
わしわしと頭を撫でられ、ティノは照れたように目を細めた。
――それは、楽園の代わりに残された証。
そして、この海が確かに守られたことを示す、小さな祝福だった。
セレーネブルーからの帰還は、もうすぐそこまで来ていた。




