託されたモルドの想い
アルスは、動けなかった。
巨大な水のうねりの中で、身体は確かにそこにあるのに、尾びれも胸びれも、思うように動かなかった。
――怖い。
ただ、それだけだった。
目の前で蠢く、あまりにも大きな存在。
赤い目。毒の気配。海そのものを歪める圧。
それは、アルスがこれまで見てきたどんな敵とも違っていた。
戦えばいい相手でも、逃げれば済む相手でもない。
そこにいるだけで、心が削られる。
『……っ』
声を出そうとしても、喉が震えるだけで、音にならない。
ルーナが、いる。
遠くない場所で、必死にヨルムガンドに向かって立ち向かっている。
小さな身体で、水流を放ち、叫び、歯を食いしばっている。
――行かなきゃ。
頭では分かっている。
助けなきゃ。近づかなきゃ。守らなきゃ。
でも、身体が言うことをきかない。
ヨルムガンドの赤い目が、ほんの一瞬、こちらを掠めただけで、アルスの全身が強張った。
(こわい)
理屈ではなかった。
経験でもなかった。
存在そのものが、怖い。
モルドの姿が視界に入る。
巨大な蛇の幻影に絡め取られ、紫の毒に侵されながらも、なお魔法陣へと魔力を流し続けている。
逃げない。
抗わない。
ただ、留めるために、そこにいる。
(なんで……)
アルスの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
(なんで、そんなことができるんだよ……)
怖くないはずがない。
痛くないはずがない。
それなのに、モルドは動かない。
逃げろ、と叫びながら。
それでも自分は逃げずに。
ルーナが、ティノに支えられながら、モルドの方へ向かっていくのが見える。
その姿が、やけに遠く感じられた。
(ぼくは……)
強くなりたいと思ったことは、何度もある。
戦える存在になりたいと、思ったこともある。
でも今、この場所で必要なのは、力じゃない。
――分かっているのに。
アルスは、ただ震えながら、見ていることしかできなかった。
逃げていない。
目を逸らしていない。
けれど、動けない。
ヨルムガンドが、ゆっくりと鎌首をもたげる。
その影が、モルドを完全に覆い尽くそうとした、その瞬間――
『…………』
アルスの耳の奥で、何かが、かすかに揺れた。
声ではない。
音でもない。
それでも、確かに何かが伝わってくる。
重い。
深い。
静かな、意志。
(……え?)
アルスは、はっとする。
それは、言葉ではなかった。
けれど、間違いなく――モルドの存在そのものだった。
恐怖の中で、初めて気づく。
モルドは、叫んでいない。
助けを求めていない。
ただ、そこにいる。
逃げずに。
拒まずに。
壊れない位置で、留まり続けている。
(……あ)
その瞬間、アルスの中で、何かが、静かにほどけた。
――戦わなくていい。
――強くなくてもいい。
離れなければ、それでいい。
震える身体のまま、アルスは目を見開いた。
まだ、動けない。
まだ、怖い。
それでも――アルスは、モルドから、目を逸らさなかった。
その赤い目が、ゆっくりと閉じられていくのを。
魔法陣が、再び青く光を取り戻し始めるのを。
ヨルムガンドの姿が再び魔法陣に封印されていくのを。
海が、深く、息を吸い込むように静まっていくのを。
アルスは、ただ見届けていた。
それが、今の自分にできる、唯一のことだったから。
そしてその奥で、確かに感じていた。
――言葉にはならない、最後の声を。
だが確かに、意味だけが胸に落ちてきた。
――離れるな。
それきり、何も届かなかった。
『……モルド』
名を呼んでも、応えはない。
アルスはしばし、海中に立ち尽くしていた。
だが、ふと胸がざわめく。
『……そうだ』
思い出したのは、たった一つの存在。
『ルーナ……!』
アルスは身を翻し、必死に泳いだ。
ティノに支えられ、肩で息をする少女の姿が視界に入る。
『ルーナ! 大丈夫!?』
「ええ……わたしは平気よ」
ルーナはそう答え、ゆっくりと視線を上げた。
「それよりも……終わったのね」
彼女の見据える先。
そこには、役目を終えた巨体が、静かに海に漂っていた。
「モルド……」
もう、動かない。
「死んじゃったんだね」
「ええ。でも……最期まで役割を果たしたわ」
ルーナは静かに続ける。
「だから今度は――わたしが、それを未来に運ぶ番よ」
その瞳には、悲しみだけでなく、確かな決意が宿っていた。
『ルーナ……』
アルスは思わず声を落とす。
『ルーナも強い。モルドも……強かった。でも、ぼくは……』
言葉が続かなかった。
怖くて、動けなくて、何もできなかった。
その事実が、胸を締めつける。
だが――ふと、胸の奥で、静かな声がよみがえる。
――離れるな。
『……ううん』
アルスは、首を振った。
『なんでもない。ぼくは……このまま、ルーナのそばにいたい。怖くても、震えてても……離れない』
「アルス……」
ルーナはその大きな顔を、両腕で抱きしめる。
「ええ。わたしたち、ずっと一緒よ」
海中で、二人の影が重なった。
それからルーナが手を合わせて祈りを捧げると、ティノも真似をする。
アルスも祈りを捧げるように、モルドの亡骸に頭を垂れた。
「――ナミも心配しているわ。早く戻りましょう。――アルス」
『うん』
アルスは大きく頷くと、静かに身体を翻した。
ルーナを背に乗せ、ティノと共に――海底洞窟を後にする。
その背後で、沈黙の封印は、再び深く静まり返っていった。




