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封印の大魔物

 闇に包まれた海底洞窟を進むことしばらく、ルーナは奥に淡く揺らぐ青い光を見つけた。


「あれは……!」


 ゆっくりと泳ぐアルスの背に身を預けたまま、ルーナはその光に確信する。


――モルドが、いる。


 光の源へと辿り着いた瞬間、視界が開けた。


 海底からせり上がるように展開された、幾何学模様の巨大な魔法陣。


 その中心に、ただ一頭、静かに佇む影があった。


 九メートルに及ぶ白黒の巨体。

 高く、真っ直ぐに立ち上がった背びれ。

 そして、向かって右のアイパッチに刻まれた、深い傷痕。


 ――間違いない。


「モルド……!」

『……でも、なんか変だよ』


 アルスの声に、ルーナも気づく。


 モルドの輪郭が、水面の揺らぎのように、不安定に歪んでいる。


 同時に、魔法陣が低く唸るような光を放ち始めた。


「……魔力が、流れてる」


 ルーナが呟いた瞬間、モルドは振り返らぬまま、重い声を届けてきた。


『……何しに来た』


 その声には、怒りも驚きもない。

 ただ、覚悟だけがあった。


「モルド、あなたは……」

『止めに来たのなら無駄だ。これは俺の役目だ。――誰にも、代われない』


 その断言に、ルーナの胸が締めつけられる。

 だが、彼女は一歩も退かなかった。


「違うわ」


 はっきりと、告げる。


「わたしは……あなたを止めに来たんじゃない。あなたの最期を、見届けに来たの」

『……何だと?』


 初めて、モルドの声が揺れた。


『ルーナ! 助けるんじゃないの!?』


 アルスの動揺が、そのまま伝わってくる。

 ルーナは、ゆっくりと彼に視線を向けた。


「アルス……わたし、分かったの」


 拳を胸元で握りしめる。


「これは、わたしたちが代わって背負っていい問題じゃない。モルドを止める資格なんて……わたしには、ない」


『ルーナ……』


 アルスは言葉を失う。


 その沈黙を、モルドが受け取った。


『……なら聞こう、小娘。俺の最期を見届けて、お前は何を得る?』


 ルーナは迷わなかった。


「逃げないこと。この世界が、誰かの犠牲で保たれてきた事実から、目を逸らさないこと」


 一つ息を吸い、続ける。


「そして――その意味を、未来に運ぶこと」


 洞窟の水が、わずかに震えた。


『……そうか』


 モルドの声に、わずかな温度が戻る。


『ならば見ていろ。俺が、終わらせる役目を果たすところを』


 その瞬間、モルドの巨体がわずかに浮き上がった。


『はああああ……!』


 輪郭がさらに揺らぎ、代わりに魔法陣の光が脈打つように強まる。


「魔力を……全部、陣に……!」

「身体そのものを、核にしてる……!」


 ティノの声が震える。


 その傍らで、アルスは落ち着きを失っていた。


『ねえ……本当に、助けなくていいの?』

「アルス……これは、彼の選択よ」


 だが――


『……苦しいよ。モルド、すごく……』


 その言葉に、ルーナの目が見開かれる。


 見れば、モルドは苦悶に身をよじっていた。


『ぐ……っ、ヨルムガンド……抗うな……!』

「――見て!」


 ティノが叫ぶ。


 青く輝いていた魔法陣の一部が、不穏な赤へと染まり始めていた。


「そんな……封印が……!」


 赤は、急速に広がる。


 そして――魔法陣の中心から、巨大な影が鎌首をもたげた。


 漆黒の鱗。

 赤く輝く、邪悪な瞳。

 首だけで、世界を圧する存在感。


「あれが……」


 ルーナの喉から、かすれた声が漏れる。


「……封印されていた、大魔物……!」


 ――巫女の幻影が見せた悪夢が今、現実として目の前に姿を現そうとしていた。


 海蛇の大魔物が、赤く冷え切った眼でモルドを見下ろした。


『ヨルムガンド……貴様は、俺が封じる……!』


 モルドもまた、巨大な魔物を静かに一瞥し、再び全身から魔力を絞り出す。


 ――しかし、魔法陣の光はもはや赤に侵されきっていた。


「あれが……大魔物、ヨルムガンド……!?」

「すごい……殺気だ……」


 ルーナとティノは、圧倒的な存在感に言葉を失う。

 その時。


「ムシュルルルル……!」


 低く不快な音とともに、ヨルムガンドの影が揺らぎ、モルドの背後から無数の蛇の幻影が生え出した。


「モルド、危ない!」


 ルーナの叫びは、間に合わなかった。


『ぐっ……あああああああ!』


 蛇の幻影がモルドの巨体に絡みつき、紫色の毒が傷口から侵食していく。


「モルド!」


 それでも――苦悶に歪むその眼は、確かにルーナたちを見ていた。


『……お前たち……今のうちに、逃げろ……!』


(モルドは……自分の命と引き換えに、わたしたちを……)


 ルーナは胸元を強く握りしめる。


 ――だが、視線を逸らさなかった。


「……いいえ」


 はっきりと、告げる。


「わたしは……逃げない!」


 ルーナは手をかざし、呪文を紡いだ。


「――アクア・キャノン!」


 放たれた水流が、ヨルムガンドの側頭部に直撃し、激しい水飛沫が舞い上がる。


「シュルルル……?」


 怪物の赤い瞳が、ゆっくりとルーナへ向けられた。


「ルーナさん、無茶だ!」

「分かってる! でも……!」


 ルーナは叫ぶ。


「――アルス!」


 胸元の笛を吹く。

 だが――反応はない。


「アルス……?」


『……あ……』


 視線を向けると、アルスは恐怖に縛られたまま、その場に固まっていた。


 逃げ場のない圧。

 声にならない震え。


 次の瞬間。


「コアアアアアアア!!」


 ヨルムガンドの口から放たれた濁流が、ルーナを容赦なく打ち据える。


「きゃあっ!!」

「ルーナさん!」


 ティノが咄嗟に泳ぎ出る。


 だがヨルムガンドは、なおも蛇の幻影を放った。


「……ルーナさんは、オレが助ける……!」


 必死に幻影をかいくぐり、ティノはルーナを抱き寄せ、海面へ押し上げる。


「ルーナさん!」

「……ありがとう、ティノくん……助かったわ……」


 息を整えながら、ルーナは再び視線を戻す。


 そこには――魔力を吸い上げられ、なおも抗うモルドの姿。


(ヨルムガンドは……モルドの魔力で、完全に目覚めようとしてる……!)


 ルーナの胸に、焦りが走る。


「……モルドを、助けなきゃ……!」

「モルドの魔力で、復活する気だ……!」

「そんなこと……させない!」


 ルーナは、即座に決断した。


「ティノくん! わたしを、モルドのところまで連れていって!」

「えっ……でも……!」


 一瞬ためらったティノだったが、ルーナの覚悟を宿した眼差しを見て、うなずく。


「……分かった。でも、無茶だけはしないで……!」

「約束するわ」


 ティノの力強い泳ぎに身を預け、ルーナはモルドの元へと向かう。


 ――その光景を、アルスはただ見つめることしかできなかった。


 恐怖と、信頼と、言葉にできない想いを胸に抱いたまま。

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