海底洞窟
毒に侵された海域で、アルーナ号が思うように動けずにいる中。
エルザが、島の側端を指差して声を上げた。
「あそこ……! 何かが、海面から見えるのさ!」
示された先に、ルーナは思わず息を呑んだ。
紫の水を切り裂くように突き出した、一本の黒い背びれ。
「あれは……!」
『間違いない、モルドだよ!』
アルスも即座に気づいた。
このセレーネブルーで、あれほど歪みのない、まっすぐな背びれを持つシャチは――ただ一頭。
モルドは一切振り返らず、背びれで海面を裂くように進み、島の裏側へと消えていった。
『……どこに行くんだろう』
不安げなアルスの声を聞いた瞬間、ルーナの胸に、嫌な予感が走る。
(……あの時の顔)
沈黙の島を離れ際に見せた、あの覚悟を決めたような眼差し。
(まさか……!)
「ナミ!」
ルーナは、ほとんど反射的に叫んでいた。
「今の背びれが向かった方へ! 船を回して!」
「――かしこまりました!」
ナミは一瞬も迷わず舵を切る。
アルーナ号は大きく弧を描き、島の反対側へと回り込んだ。
だが――。
「……いない」
「確かに、ここに来たはずなのさ!」
ティノとエルザが、海面を必死に探す。
その時、ナミが静かに声を落とした。
「……皆様。こちらをご覧ください」
指し示された先。
そこだけ、紫に染まっていた海が、一直線に青へと戻っている。
「……そんな」
「毒が……消えてる?」
『ねえルーナ。ここ、ヒリヒリしないよ』
アルスが、恐る恐るその水に触れて確かめる。
「……本当だわ」
ルーナの脳裏で、点と点が繋がる。
「モルドが……道を作ったのね」
「それなら……近づけますね」
ナミが確認する。
「ええ。お願い、ナミ」
アルーナ号は慎重に、その青の道へと進み――島の近くまで迫った。
その時だった。
『ルーナ……!』
アルスの声が、急に緊張を帯びる。
『海の底に……入り口がある。……モルドも、そこから入っていった』
「みんな聞いて。アルスが、海底に入口を見つけたの。モルドは……もう中に入ったみたい」
ルーナの声は、確信に満ちていた。
やはり――モルドは、一人で終わらせるつもりだ。
「……海底?」
エルザが思わず声を上げる。
「ですが……」
苦い表情を浮かべるナミ。
「海底となると、どうやって向かわれるおつもりですか?」
「それは――」
一瞬、言葉に詰まるルーナ。
だが次の瞬間、アルスが勢いよく顔を上げた。
『ぼくが連れていく!』
「アルス……!」
「――いけません!」
即座にナミが制止する。
「アルス様がご一緒とはいえ、潜水はあまりにも危険です!」
それでも、ルーナは一歩も引かなかった。
「お願い、ナミ」
真っ直ぐな瞳で、懇願する。
「……モルドを、一人で行かせたくないの」
ナミは、唇を噛みしめる。
そこへ、ティノが一歩前に出た。
「――オレも行く」
「ティノ様……?」
「三人なら、少しは安全だ。それに……」
胸を張る。
「カワウソ族は、潜水も得意なんだ。任せてよ」
迷いのない声。
ナミは、しばらく沈黙した後――深く息を吐いた。
「……分かりました」
そして、はっきりと告げる。
「どうか、ご無事で。必ず……戻ってきてください」
「ありがとう、ナミ」
「オレが、ルーナさんを無事に連れ帰るから……!」
「それじゃあ、私とエルザは船を守るのさ!」
「……不本意ですが、全力で留守を預かります」
準備は整った。
ルーナは、迷いなく海へと飛び込む。
「行ってくるわ!」
「お嬢様――!」
縁から身を乗り出すナミに、ルーナは力強く手を振った。
そして、アルスの背へ。
続いて、ティノも海へと身を投じる。
三つの影が、静かに、だが確かに――引き返せない深みへと沈んでいった。
ナミは甲板で手を組み、ただ祈る。
「……どうか、ご無事で」
それは、見送る者に許された、唯一の行動だった。
海中をゆったりと潜るアルスにしがみつきながら、ルーナは不思議な光景を目にしていた。
紫色に濁った水の中に、一本の青い帯が挟み込まれるように走っている。
(あそこだけ……毒に侵されていない)
まるで海そのものが「ここを進め」と示しているかのようだった。
息を止め、胸の奥がじんと痛むのをこらえながら、ルーナはアルスの動きに身を委ねる。
アルスもまた迷いなく、その青い水の道をなぞるように進んでいった。
視界の端には、同じ速度で潜水するティノの姿。
彼もまた、この異様な海の気配を肌で感じ取っているようだった。
やがて――。
目の前に、海底にぽっかりと口を開けた洞窟が現れる。
(あれが……入り口)
一切ためらうことなく、アルスはその暗がりへと身を滑り込ませた。
(……やっぱり。この先に、何かがある)
確信に近い予感が、ルーナの胸に宿る。
洞窟の内部は、光を拒むような闇に包まれていた。
だがアルスは、エコーロケーションの反響だけを頼りに、確実に進路を選んでいく。
ルーナは、はぐれないようティノの手を取った。
互いに何も言わず、ただ一度だけ目を合わせてうなずく。
――戻れない場所へ向かっている、その覚悟を確かめ合うように。
しばらく進んだその時。
闇の向こうに、淡く揺れる水面の煌めきが見えた。
アルスが静かに浮上し、頭頂をわずかに水面へ出して潮を吹く。
それに続いて、ルーナも顔を上げた。
「ぷはっ……! はあ……苦しかったわ……!」
「ルーナさん、大丈夫?」
「ええ。平気よ。心配してくれてありがとう、ティノくん」
そう言って微笑むと、彼女の唇がティノの頬にかすかに触れた。
「あ、ああ……」
思わず小さな獣耳まで赤くするティノの横で、アルスがむっとした声を上げる。
『……ぼくにも、それちょーだい』
「ふふ、そうね。ここまで来られたのはアルスのおかげよ」
ルーナが額に口づけると、アルスは誇らしげに胸を張った。
『えへん!』
短い安堵の後、ルーナは再び洞窟の奥を見据える。
「……まだ続いているみたいね。この先も、行けそう?」
『うん。水も、きれいだよ』
アルスの言う通り、洞窟を満たす水は澄み切っていた。
まるで、この奥だけが世界から切り離され、守られているかのように。
「……この先に、モルドがいるのね」
ルーナは小さく息を吸い、アルスの背に再び身体を預ける。
その胸に浮かぶのは、もうすぐ対面するであろう、終わらせる覚悟を背負った存在の姿だった。




