目覚めの前触れ
沈黙の島が、再び視界に入った。
前回よりも近い。
だが、近づいているはずなのに、距離の感覚が狂っている。
海の色は、セレーネブルー特有の煌めきを失い、鈍い青黒へと沈みつつあった。
波は立っていない。
それなのに、水面はわずかに歪み、まるで巨大な何かが海の底で身じろぎしているかのようだ。
「……変ね」
ルーナは無意識に、胸元の光貝を握りしめた。
光はまだ消えていない。
だが、導くようなあたたかさではなく――どこか、脈打つような不安を帯びている。
『……ルーナ』
アルスの声が、いつもより低かった。
『ここ……やっぱり、前より怖い』
その言葉に、ルーナは即座に否定しなかった。
「ええ……。でも」
進まなければならない。
そう、理屈では分かっている。だが――。
そのときだった。
アルーナ号の進行方向、わずか先の海面が、音もなく割れた。
水しぶきは上がらない。
波も立たない。
ただ、そこに現れた。
黒と白の巨体。
まっすぐに立ち上がった背びれ。
右のアイパッチを裂く、深い傷痕。
沈黙の海に浮かぶ、その存在を見た瞬間――。
『……っ』
アルスが、息を詰めた。
身体が強張り、尾がわずかに震える。
「……モルド」
ルーナが、その名を呼ぶより早く。
『やはり、戻ってきたか』
低く、深い声が、頭の奥に直接響いた。
モルドは、船を見ていない。
最初に向けた視線は――アルスだった。
『若造。……お前はまだ、戻れる』
それだけだった。
『……?』
アルスは言葉を失った。
怖い。
だが、逃げたいとは思えない。
隣には、ルーナがいる。
『……ぼくは』
声が、わずかに震える。
『ルーナと一緒に行く』
即答ではなかった。
それでも、はっきりとした意思だった。
モルドは、その答えを咎めなかった。
ただ一瞬、赤く濁った目を細める。
『……そうか』
そして、ようやくルーナへと視線を向けた。
『小娘。この先へ進めば、島は目を覚ます、目を覚ましたものは、もう眠りには戻らん』
淡々と、事実だけを告げる声。
『引き返せば、今は保たれる。進めば、誰かが残ることになる』
「……誰が、なの?」
ルーナの問いに、モルドは答えない。
『それを知れば、選択ではなくなる』
沈黙が落ちる。
海も、風も、息を潜めている。
ルーナは、光貝から手を離した。
一歩、船縁へと進み出る。
「……それでも」
声は、静かだった。
「それでも、わたしは進むわ」
正解かどうかは、分からない。
救える保証も、ない。
それでも。
見てしまった。
聞いてしまった。
――なら、目を逸らすことはできない。
モルドは、長い沈黙ののち、ゆっくりと身体を回した。
進路を塞いでいた巨体が、わずかに横へとずれる。
『……なら、もう止めない』
それだけ言うと、彼は船よりも先へ向かって泳ぎ出した。
沈黙の島へ。
誰よりも早く。
『……あのシャチ』
アルスが、小さく呟く。
『戻ってこない気がする』
ルーナは答えなかった。
ただ、胸の奥に沈んだ重さを、否定しなかった。
アルーナ号は、静かに前進を再開する。
――引き返せる最後の地点を、越えて。
沈黙の島に近づくほど、海面のうねりは次第に大きくなり、その間隔も短くなっていった。
まるで――海そのものが、浅い呼吸を繰り返しているかのようだ。
「……このうねり、ただ事じゃない気がする」
胸元の光貝をぎゅっと握りしめながら、ティノは低く呟いた。
巨大な生き物の背中を踏みしめているような、不安定な感触が、足元から伝わってくる。
不安を隠せない仲間たちを前に、ルーナは船首へと進み出た。
「ここまで来たら、もう引き返せないわ」
声は震えていない。
「――だから、必ず生きて帰る。全員で、よ」
「元より、そのつもりでございます」
ナミは短く、だが迷いなく応じた。
「もちろん! 港で、かーちゃんが待ってるからな!」
エルザは強がるように笑いながらも、その拳は固く握られている。
「……オレもだ」
ティノは視線を海から逸らさずに言った。
「死んだ家族の分まで……オレは、生きて帰らなきゃならない」
それぞれの覚悟を受け止め、ルーナは小さく息を吐いた。
「……みんな」
その背後から、荒れる海面を割ってアルスが顔を出す。
『ぼく、もう恐れない!』
必死に、言い聞かせるような声。
『ルーナが、隣にいてくれるから!』
ルーナは身を屈め、アルスの額にそっと口づけた。
「ええ。頼りにしてるわ、アルス」
そして、島を指差す。
「行きましょう。沈黙の島へ」
「ええ!」
「探検少女エルザ、これは燃えるのさ!」
「……ああ」
『うん!』
その瞬間だった。
島を囲む海の色が、音もなく変わった。
澄んだ青は失われ、濁った暗紫色が、円を描くように広がっていく。
「……これは……」
『――ううっ!』
紫の水に触れた瞬間、アルスが苦しげに身を捩った。
「アルス!?」
『ヒリヒリする……! ここ、すごく……嫌な感じがする!』
「……どうやら」
ナミが海面を鋭く見据える。
「島を囲む海域そのものが、毒に侵されているようです」
「そんな……!」
ティノが震える指で示した先。
「見て……魚が……」
金色の小魚たちが、紫色の水面に無数に浮かんでいた。
その輝きは、すでに命の色ではない。
「……ひどい」
「……なんてことなのさ……」
言葉を失う一行を嘲笑うかのように――。
島が、震え始めた。
低く、腹の底に響く振動。
それに呼応するように、波が激しくうねり、アルーナ号を大きく揺さぶる。
「くっ……!」
「立っていられないのさ……!」
必死に耐える中、ルーナの視界に映ったものは――崩れ落ちる島の斜面。
そして、紫の海面に浮かび上がる、蛇のような巨大な影。
「……まさか……」
脳裏をよぎるのは、遺跡で見せられたあの光景。
シャチと人が祈り、世界を留めようとした、あの過去。
「……大魔物……」
それはまだ、完全には姿を現していない。
だが確かに――目を覚ましつつある。




