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ルーナの選択

 アルーナ号の甲板に、夜の気配が静かに降りていた。


 セレーネブルーの海は、相変わらず星を溶かしたように淡く輝き、まるで何事も起きていないかのように、穏やかに波打っている。


 ――その穏やかさが、かえって不自然だった。


「……」


 ルーナは舷側に手を置いたまま、海を見つめ続けていた。


 その背中は、先ほどまでと変わらないはずなのに。

 メイドのナミには、はっきりと分かった。


(……変わられましたね、お嬢様)


 決意を口にしたわけでもない。

 命令を出したわけでもない。

 それでも、「引き返さない背中」になっていた。


 ナミは静かに一歩近づく。


「……冷えますよ、お嬢様」


 そう言って、いつものように毛布を差し出す。

 けれど、その手は一瞬だけ、迷うように止まった。


(止めるべきでしょうか。……いいえ)


 もしここで止めれば、ルーナは従うだろう。

 それが「主とメイド」という関係だから。


 だが――


(それは、あのお方の選択を奪うことになります)


 ナミは、毛布をそっとルーナの肩にかけるだけに留めた。


「……何か、お考えですか?」


 問いは、あくまで控えめに。

 決して踏み込まない距離で。


 ルーナは、しばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。


「……さすがね、ナミ。隠せてないかしら?」

「……お嬢様は昔から、何かを背負おうとなさるときほど、静かになります」


 それは責める言葉ではない。

 ただの事実だった。


「止めませんよ、わたくしは」


 ナミは、はっきりと告げる。


「それが、正しいかどうかは分かりません。ですが――お嬢様が選ばれる道を、最後までお支えするのが、わたくしの役目ですから」


 ルーナは、驚いたように振り返った。


「……いいの?」

「ええ。お嬢様が進むなら、わたくしも進みます」


 そこに迷いはなかった。


 そのやり取りを、少し離れた海面から、アルスが見ていた。


『…………』


 尾びれを揺らしながら、落ち着きなく水をかく。


 怖い。

 あの島は、あの赤い目は、あの気配は。


 今でも思い出すだけで、胸の奥がぎゅっと縮こまる。


『……ルーナ』


 アルスは、そっと声をかけた。


 ルーナが振り向くと、アルスは少しだけ躊躇い、正直に告げる。


『……ぼく、まだ怖いよ』


 その声は、小さかった。


『また近づいたら……また、ああなったら……』


 ルーナは、何も言わずにしゃがみ込み、水面越しにアルスの額に両手を添えた。


「うん。怖いわよね」


 否定しない。

 励ましもしない。


「……それでも、あなたは離れない?」


 アルスは一瞬、言葉に詰まった。


 怖い。

 でも。


『……うん』


 小さく、でもはっきりとうなずく。


『ぼく、ルーナがどこに行くか分からなくても……ルーナが行くなら、ついていく』


 それは勇気ではなく、信頼だった。


 ルーナの胸が、少しだけ痛む。


「ありがとう、アルス」


 彼女は、アルスの額にそっと口づける。


「……まだ答えは出してないわ。でも、あなたを置いて行く選択だけは、しない」

『……それでいいよ』


 アルスは、ほっとしたように息を吐いた。


 その様子を、ナミは静かに見守っていた。


(この方は、もう導かれる者ではありません)


 選ぶ者だ。

 背負うことを、知った者だ。


 アルーナ号の上に、静かな沈黙が落ちる。


 だがそれは、恐怖の沈黙ではない。


 ――決断の、前触れだった。


 沈黙の島は、今も何も語らない。


 ただ、再び来ることを、拒みもせず、許しもせず、待っている。


 そしてルーナは、まだ一言も言っていない。


 「行く」とも、「行かない」とも。


 だが、その沈黙こそが、すでに答えに近づいていることを、ナミとアルスは感じ取っていた。



 翌朝、異変は――あまりにも静かに起きた。


 セレーネブルーの海が、まるで巨大な生き物が息を吸い込むように大きくうねり、アルーナ号の船体を下から持ち上げる。


「おおっ!?」

「な、なんなのさ!?」


 不意の揺れに、ティノとエルザが思わず舷側にしがみつく。


「きゃっ!?」

「お嬢様!」


 足元を取られたルーナの身体を、ナミが反射的に抱き止めた。


「ありがとう、ナミ」

「いえ……ですが、妙ですね」


 ナミの視線が海面を追う。


 先ほどまで確かに存在した大きなうねりは、嘘のように収まり、セレーネブルーは再び不気味なほどの静けさを取り戻していた。


「嵐でもない……ただの波でもない……じゃあ、さっきのは何だったのかしら……?」


 その問いに答えるように、ティノが胸元を押さえる。


「――見て。光貝が……!」


 彼の首元で、光貝のペンダントが淡く点滅していた。


「……わたしのも」


 ルーナが懐から取り出した光貝も、同じリズムで脈打つように光っている。


 二つの光はやがて共鳴し合い、一本の線となって海を越え、沈黙の島へと伸びていった。


「これって……」

「ええ……島が、わたしたちを呼んでいる」


 確信めいた言葉に、甲板の空気が張り詰める。


「――向かわれるのですね」


 ナミの静かな確認に、ルーナは言葉を返さず、ただ小さくうなずいた。


『ルーナ……』


 アルスが、不安を隠しきれない声で呼びかける。


『本当に……また行くの?』


 ルーナは海を泳ぐアルスの顔に手を伸ばし、その大きな額にそっと触れた。


「ええ。でも、大丈夫」


 強がるような言い方ではなかった。


 それは、すでに決めてしまった者の、静かな声だった。


「あなたは、わたしが守る。――絶対に」

『……うん』


 アルスは小さく鳴き、信じるように身を寄せてくる。


 ルーナはゆっくりと立ち上がり、仲間たちを見渡した。


「沈黙の島へ、再び向かうわ」

「かしこまりました、お嬢様」

「面舵一杯、なのさ!」


 アルーナ号は二つの光貝に導かれ、再び沈黙の島へと進路を取った。


 ――逃げるためではない。

 終わらせるためでもない。

 ただ、選ぶために。

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