モルドの問い
ふとルーナは、水面から高く立ち上がった背びれに気付く。
(あれは、もしかして……!)
それと同時に、今までアルスをなぐさめていたシャチの群れがこの場から離れ始めた。
『待って! ……行っちゃった』
アルスの呼び止めも虚しく、シャチたちの背びれは遠ざかっていく。
入れ替わるように顔を出したのは、右のアイパッチに傷痕が刻まれた顔。
謎の雄シャチ、モルドだった。
『やはり俺はこの辺りのシャチたちに嫌われているらしい』
どこか寂しげに言うモルドに、アルスが口を尖らせる。
『今度は何しに来たの?』
『若造か。俺はそこの小娘に伝えなければいけないことがあるんだ』
「――わたし?」
そう告げて顔を向けるモルドに、ルーナは目を丸くした。
モルドの赤く濁った眼が、ルーナをまっすぐに捉える。
『……島に、足を踏み入れたな』
その一言で、ルーナの胸がひくりと鳴った。
「ええ。遺跡まで行ったわ」
『そうか』
それ以上、責める言葉はなかった。
だが水面のわずかな揺れが、彼の内に抑えきれない感情があることを示していた。
『音が、戻っただろう』
「……ええ」
ルーナは、あの時のことを思い出す。
無音だった森に、突然戻った風のざわめき。
そして、石碑の亀裂から覗いた赤い眼。
「……あれは、前兆なのね?」
問いかけに、モルドはすぐには答えなかった。
しばらくの沈黙ののち、低く告げる。
『島が、耐えるのをやめ始めた。沈黙は、永遠ではない』
アルスが、思わず前に出る。
『それって……あいつが、また暴れるってこと!?』
『……可能性の話だ』
モルドはアルスを見下ろすように一瞥したが、その声は不思議と柔らかかった。
『恐怖を感じたな』
『……うん。すっごく、怖かった』
アルスの正直な答えに、モルドは小さく目を細めた。
『それでいい。恐怖を知っているうちは、お前はまだ縛られていない』
「縛られる……?」
ルーナの呟きに、モルドの視線が再び彼女へ戻る。
『あの島は、悪ではない。だが、優しくもない』
水面に映るセレーネブルーの光が、モルドの傷痕を淡く照らす。
『世界は、歪みを拒めない。拒めない歪みを、留めるしかなかった』
「……それが、封印?」
『そうだ』
モルドは、はっきりと頷いた。
『倒すことはできなかった。消すことも、追い払うことも。だから――拒んだ』
その言葉に、アルスがはっと息を呑む。
『拒む……?』
『力で押し返すのではない。縛りつけるのでもない』
モルドの声は、どこか遠い過去をなぞるようだった。
『世界が壊れない位置に、留める。それだけだ』
ルーナの脳裏に、巫女の言葉がよみがえる。
――拒み、耐え、見届ける。
「……それで、あなたはここに?」
モルドは、少しだけ首を振った。
『俺は、選んだ。逃げなかった。それだけだ』
その簡潔すぎる言葉に、ルーナは胸の奥が締めつけられる。
「……わたしたちが来たことで、何かが変わったの?」
問いは、震えていた。
モルドは、すぐには答えない。
やがて、低く告げる。
『変わるかどうかは、お前次第だ。だが――』
一瞬、視線がアルスへ向く。
『こいつを、縛るな。恐怖を、奪うな』
『……?』
『強くしようとするな。残らせようとするな』
その意味を、ルーナは痛いほど理解してしまった。
「……もし、誰かが残らなければならないとしたら」
言葉を選びながら、ルーナは続ける。
「それを、受け取る覚悟があるか――そう問われているのね?」
モルドの眼が、わずかに揺れる。
『……受け取るか。それとも、見なかったことにするか。俺は、もう選んでいる』
だが、それ以上は語らない。
『答えは、今はいらない。島は、逃げない。だが――』
水面が、静かに波打つ。
『次に足を踏み入れる時、その時は、何かが失われる』
それが誰なのか、何なのか。
モルドは言わなかった。
『それでも来るなら、俺は止めない』
そう言い残すと、巨体はゆっくりと海中へ沈んでいく。
『……モルド!』
アルスの呼び声にも、振り返らない。
やがて水面には、再びセレーネブルーの淡い光だけが残った。
ルーナは、しばらくその場所から目を離せなかった。
「……選択、か」
胸元で、光貝がかすかに脈打つ。
そして彼女はまだ知らない。
あの背中が、すでに「逃がす」ための位置に立っていることを。
モルドの姿が完全に消えたあとも、ルーナはしばらく海を見つめていた。
セレーネブルーの光は変わらず穏やかで、何事もなかったかのように波を揺らしている。
――だからこそ、余計に胸がざわついた。
(島は、悪じゃない……)
巫女の言葉。
モルドの言葉。
そして、自分の目で見た遺跡と、封印の痕跡。
すべてが同じ方向を指していた。
(壊す存在じゃない。でも、放っておける存在でもない)
もしもあのまま、島に近づかなければ。
もしも何も知らなければ。
この海は、きっと静かなままだった。
(逃げれば、世界は保たれる……)
それは、確かに「正しい選択」なのかもしれない。
誰も犠牲にならず、誰も孤独にならず、何も背負わずに済む。
――けれど。
ルーナの脳裏に、恐怖に震えるアルスの姿がよみがえる。
あれほど大きな身体で、あれほど優しい心で、ただ「怖い」と正直に震えていた。
(……守るって、なんだろう)
戦わせることじゃない。
強くさせることでもない。
恐怖を押し殺させることでも、使命を押し付けることでもない。
(……縛らないこと)
それだけは、はっきり分かった。
胸元で、光貝がかすかに温もりを帯びる。
――導いているのではない。
――急かしてもいない。
ただ、そこに在るだけ。
(助ければ、誰かが失われる)
(封じれば、封じた者は孤独になる)
巫女の問いが、今になって重く胸に沈む。
それでも。
ルーナは、無意識のうちにアルスの方へ手を伸ばしていた。
『……ルーナ?』
不安げな声。
彼女は、ぎゅっとその額に触れる。
「大丈夫よ。……まだ、決めてないだけ」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
(正解なんて、ない)
きっと、どの道を選んでも後悔は残る。
それでも。
(何もしなかった後悔だけは――)
それだけは、どうしても選べなかった。
ルーナは、静かに息を吸い込む。
沈黙の島は、何も語らない。
ただ、確かに“待って”いる。
彼女はまだ知らない。
その選択の先で、誰がどんな形で手を伸ばすことになるのかを。
――だが、もう後戻りはできない。
そのことだけは、はっきりと分かっていた。




