綻び
*
一方その頃、沈黙の島を囲む、波一つ立たぬ海の水面。
静止した水の中で、ただ一つの眼差しが島を見据えていた。
白と黒の巨体。
九メートルに及ぶ体躯と、向かって右のアイパッチに刻まれた深い傷痕。
――この海に長く留まり続けた者、シャチのモルド。
(……この気配)
島から滲み出す、微かな揺らぎ。
それは音ではなく、魔力でもなく、ただ在り方そのものの歪みだった。
(まさか……あの巫女が)
名を呼ぶことはしない。
それでも、その存在を思い出さずにはいられなかった。
(セレーネ……お前は、何を見せた)
胸の奥に、重いものが沈む。
焦りではない。怒りでもない。
ただ、永く続いてきた均衡が、わずかにずれた感触。
(……背負うのは、俺だけでいい)
その考えは、もはや願いでも誓いでもなかった。
そう在り続けてきただけだ。
脳裏に、遠い記憶がよぎる。
――かつて、海が悲鳴を上げていた時代。
命が濁り、潮が腐り、世界そのものが耐えきれなくなっていた頃。
人は祈った。
シャチは応えた。
それが正しかったのかどうかを、今さら測る術はない。
ただ一つ確かなのは、あの日を境に、戻れない場所に立ったという事実だけだ。
(……俺は、留まった)
誰かを守るためでもない。
世界を救うためでもない。
ただ――壊れきる前に、留めるために。
その時だった。
海面を伝うように、冷たい震えが走る。
(……来ているな)
微弱だが、確かに感じ取れる。
長い眠りの底から、何かが身じろぎする気配。
(封は……まだ、持っている)
だが、万全ではない。
モルドはゆっくりと身を翻した。
巨大な尾びれが水を押し、静まり返った海に、かすかな流れが生まれる。
(……急ぐ理由はない)
それでも、行かねばならない。
沈黙の島へ。
再び、選択が迫る場所へ。
モルドは、音もなく泳ぎ出した。
*
時を同じくして、沈黙の島の遺跡で――ティノが不意に足を止め、小さな獣耳をぴくりと跳ねさせた。
「……音が、する」
その声は、ひどく小さい。
「さっきまで……本当に、何にも聞こえなかったのに……」
言われて初めて、ルーナたちは気づく。
針葉樹の葉が、風に揺れている。
かすかな、だが確かな音を立てて。
「音が戻った……?」
「それだけなら、不思議なことではありませんが……」
ナミは周囲を警戒するように視線を巡らせた。
「さきほどまで、この森は完全な無音でした。……不自然です」
「逆に怖いのさ……! 静かすぎたのが、急に生き返ったみたいで……!」
エルザの言葉に、ルーナの胸にも嫌な予感が広がる。
世界が、呼吸を再開した――そんな感覚。
『――ひっ……!』
不意に、甲高い悲鳴が空気を裂いた。
「アルス!?」
振り返ると、アルスが巨体を強張らせ、海の方へ後ずさっている。
その目は、はっきりと恐怖に見開かれていた。
『い、今……聞こえた……!』
「何が聞こえたの?」
『声……! すっごく……ダメなやつ……!』
言葉にしきれない何かを、アルスは本能で察している。
その瞬間――ルーナの背筋を、氷水が流れ落ちるような悪寒が走った。
「……っ!」
反射的に振り返る。
石碑の亀裂、その奥。
一瞬だけ――赤い、濁った眼が、こちらを覗いた。
ほんの一瞬。
だが、それで十分だった。
(……違う)
直感が、はっきり告げている。
これまで出会ったどんな魔物とも、決定的に質が違う。
「――全員、離れるわ!」
迷いはなかった。
「今すぐ! 走って!」
『うん!』
「かしこまりました!」
「ちょ、ちょっと待つのさー!?」
「置いてかないで……!」
ルーナとアルスが先頭を切り、森を駆ける。
後ろを振り返る余裕はない。
足元の感触、木々の影、風の流れ――すべてが、追い立てるように背中を押してくる。
やがて視界が開け、浜辺に飛び出した瞬間――そこにあったのは、さらに異様な光景だった。
「……海が……」
波打ち際が、渦を巻いている。
まるで島そのものが、海を引き寄せているかのように。
「これは……ただ事じゃないのさ……!」
エルザの声が震える。
その瞬間、アルスは躊躇なく海へ飛び込んだ。
『早く! 行こう!』
「ええ! ナミ、ボートを!」
「了解しました!」
手際よく準備された小型ボートに、次々と飛び乗る。
『オーケー!』
アルスが胸びれで押し出すと、ボートは一気に浅瀬を離れた。
アルーナ号へ戻ると同時に――
「面舵一杯!」
ナミの声とともに、船は大きく進路を変える。
島が、ゆっくりと遠ざかっていく。
『……こわかった……』
アルスは、震える声でそう呟き、ルーナに顔を押しつけた。
「大丈夫よ……よく我慢したわ」
ルーナはその頭を抱き、優しく撫でる。
「ナミ、お魚を」
「はい。――コネクト」
取り出された魚を口に運ばせるが――
『……なんか、喉……通らない……』
それほどまでに、恐怖は深く刻まれていた。
そのときだった。
『……あ』
海面に、影が増える。
リリと、グランマ。
そして、群れのシャチたちが戻ってきていた。
彼女たちは何も言わない。
ただ、アルスの周りを囲むように泳ぎ、寄り添う。
まるで――慰めるように。守るように。
ルーナは、その光景を静かに見つめた。
「……アルス」
本当に、怖かったのだ。
守護獣としてではなく、一頭のシャチとして。
沈黙の島は、何も語らない。
だが確かに――目を覚まし始めていた。




