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わたしとシャチの異世界ペアダイブ  作者: 月光壁虎
セレーネブルーの秘密
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綻び


 一方その頃、沈黙の島を囲む、波一つ立たぬ海の水面。


 静止した水の中で、ただ一つの眼差しが島を見据えていた。


 白と黒の巨体。


 九メートルに及ぶ体躯と、向かって右のアイパッチに刻まれた深い傷痕。


 ――この海に長く留まり続けた者、シャチのモルド。


(……この気配)


 島から滲み出す、微かな揺らぎ。


 それは音ではなく、魔力でもなく、ただ在り方そのものの歪みだった。


(まさか……あの巫女が)


 名を呼ぶことはしない。

 それでも、その存在を思い出さずにはいられなかった。


(セレーネ……お前は、何を見せた)


 胸の奥に、重いものが沈む。

 焦りではない。怒りでもない。

 ただ、永く続いてきた均衡が、わずかにずれた感触。


(……背負うのは、俺だけでいい)


 その考えは、もはや願いでも誓いでもなかった。


 そう在り続けてきただけだ。


 脳裏に、遠い記憶がよぎる。


 ――かつて、海が悲鳴を上げていた時代。

 命が濁り、潮が腐り、世界そのものが耐えきれなくなっていた頃。


 人は祈った。

 シャチは応えた。


 それが正しかったのかどうかを、今さら測る術はない。


 ただ一つ確かなのは、あの日を境に、戻れない場所に立ったという事実だけだ。


(……俺は、留まった)


 誰かを守るためでもない。

 世界を救うためでもない。

 ただ――壊れきる前に、留めるために。


 その時だった。


 海面を伝うように、冷たい震えが走る。


(……来ているな)


 微弱だが、確かに感じ取れる。

 長い眠りの底から、何かが身じろぎする気配。


(封は……まだ、持っている)


 だが、万全ではない。


 モルドはゆっくりと身を翻した。

 巨大な尾びれが水を押し、静まり返った海に、かすかな流れが生まれる。


(……急ぐ理由はない)


 それでも、行かねばならない。


 沈黙の島へ。


 再び、選択が迫る場所へ。


 モルドは、音もなく泳ぎ出した。



 時を同じくして、沈黙の島の遺跡で――ティノが不意に足を止め、小さな獣耳をぴくりと跳ねさせた。


「……音が、する」


 その声は、ひどく小さい。


「さっきまで……本当に、何にも聞こえなかったのに……」


 言われて初めて、ルーナたちは気づく。


 針葉樹の葉が、風に揺れている。

 かすかな、だが確かな音を立てて。


「音が戻った……?」

「それだけなら、不思議なことではありませんが……」


 ナミは周囲を警戒するように視線を巡らせた。


「さきほどまで、この森は完全な無音でした。……不自然です」

「逆に怖いのさ……! 静かすぎたのが、急に生き返ったみたいで……!」


 エルザの言葉に、ルーナの胸にも嫌な予感が広がる。

 世界が、呼吸を再開した――そんな感覚。


『――ひっ……!』


 不意に、甲高い悲鳴が空気を裂いた。


「アルス!?」


 振り返ると、アルスが巨体を強張らせ、海の方へ後ずさっている。


 その目は、はっきりと恐怖に見開かれていた。


『い、今……聞こえた……!』

「何が聞こえたの?」

『声……! すっごく……ダメなやつ……!』


 言葉にしきれない何かを、アルスは本能で察している。


 その瞬間――ルーナの背筋を、氷水が流れ落ちるような悪寒が走った。


「……っ!」


 反射的に振り返る。


 石碑の亀裂、その奥。

 一瞬だけ――赤い、濁った眼が、こちらを覗いた。


 ほんの一瞬。

 だが、それで十分だった。


(……違う)


 直感が、はっきり告げている。


 これまで出会ったどんな魔物とも、決定的に質が違う。


「――全員、離れるわ!」


 迷いはなかった。


「今すぐ! 走って!」

『うん!』

「かしこまりました!」

「ちょ、ちょっと待つのさー!?」

「置いてかないで……!」


 ルーナとアルスが先頭を切り、森を駆ける。


 後ろを振り返る余裕はない。

 足元の感触、木々の影、風の流れ――すべてが、追い立てるように背中を押してくる。


 やがて視界が開け、浜辺に飛び出した瞬間――そこにあったのは、さらに異様な光景だった。


「……海が……」


 波打ち際が、渦を巻いている。

 まるで島そのものが、海を引き寄せているかのように。


「これは……ただ事じゃないのさ……!」


 エルザの声が震える。


 その瞬間、アルスは躊躇なく海へ飛び込んだ。


『早く! 行こう!』

「ええ! ナミ、ボートを!」

「了解しました!」


 手際よく準備された小型ボートに、次々と飛び乗る。


『オーケー!』


 アルスが胸びれで押し出すと、ボートは一気に浅瀬を離れた。


 アルーナ号へ戻ると同時に――


「面舵一杯!」


 ナミの声とともに、船は大きく進路を変える。


 島が、ゆっくりと遠ざかっていく。


『……こわかった……』


 アルスは、震える声でそう呟き、ルーナに顔を押しつけた。


「大丈夫よ……よく我慢したわ」


 ルーナはその頭を抱き、優しく撫でる。


「ナミ、お魚を」

「はい。――コネクト」


 取り出された魚を口に運ばせるが――


『……なんか、喉……通らない……』


 それほどまでに、恐怖は深く刻まれていた。


 そのときだった。


『……あ』


 海面に、影が増える。


 リリと、グランマ。

 そして、群れのシャチたちが戻ってきていた。


 彼女たちは何も言わない。

 ただ、アルスの周りを囲むように泳ぎ、寄り添う。


 まるで――慰めるように。守るように。


 ルーナは、その光景を静かに見つめた。


「……アルス」


 本当に、怖かったのだ。


 守護獣としてではなく、一頭のシャチとして。


 沈黙の島は、何も語らない。

 だが確かに――目を覚まし始めていた。

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