巫女とセレーネブルーの過去
「ここは……!?」
白とも霧ともつかない空間で、ルーナは思わず声を上げた。
地面も空も境目がなく、音すら存在しない。
『なんにもないよ?』
隣でアルスが首をかしげ、きょとんとした声を上げる。
「――そうだ、ナミは……みんなは!?」
振り返り、視線を走らせる。
けれど、どこにも仲間たちの姿はなかった。
『ここには……ぼくとルーナしかいないみたいだね』
「……どうしてそんなに落ち着いていられるの?」
思わず問いかけると、アルスは少し考えるようにしてから、にぱっと笑った。
『だってルーナがいるもん! ルーナと一緒なら、ぼくはへっちゃらだよ!』
そう言って、アルスは大きな頭をすり寄せてくる。
「もう……アルスってば」
ルーナは吹き出し、自然と頬が緩んだ。
『……だめだった?』
「ううん。あなたはサイコーの相棒よ」
そう言ってルーナがアルスの額に口づけた、その瞬間だった。
――空間が、ゆらりと歪む。
白の奥から、滲むように輪郭が浮かび上がった。
人の形をしている。だが、はっきりとは見えない。
「あなたは……?」
問いかけた途端、耳ではなく、意識の奥に触れるような声が届いた。
『あなたもまた……導かれし少女と、シャチなのですね』
「導かれし……少女?」
戸惑いながら問い返すルーナに、影は一拍の沈黙を置いてから答えた。
『私はこの島の巫女……かつては、そう呼ばれていました』
『なんかこの人、ふしぎ~』
「こら、アルス。今お話ししてるでしょ」
軽くたしなめると、影はくすりと微笑んだように見えた。
『恐れを覚えるのも無理はありません。この島は……沈黙しすぎました』
『うん、ここすっごく気持ち悪いよ』
率直なアルスの言葉に、影は否定せず、静かに頷く。
『ですが、この島はあなた方を拒んでいるのではありません。封印を……維持するために、耐えているのです』
「封印……?」
その言葉が落ちた瞬間、影はふっと後方へ溶けるように下がった。
代わりに、空間そのものが開く。
――映像が浮かび上がった。
そこにあったのは、かつての海。
波は歌うように揺れ、人々は海辺で祈りを捧げ、シャチたちはその周囲を優雅に泳いでいる。
人とシャチが、声と声で応え合っていた。
「……こんな時代が、ここに……」
胸がじんわりと温かくなる。
だが、その光景は唐突に歪んだ。
海の奥から、影が立ち上がる。
島を囲むほど巨大な、海蛇のような存在。
吐き出される瘴気が海を濁し、命を奪っていく。
「……っ」
『こ、こわい……!』
小魚は腹を上にして浮かび、人々は叫び、シャチたちは群れを引き裂かれていく。
助けられない。
逃げられない。
あまりにも一方的な蹂躙だった。
「……ひどい……」
ルーナの声は震え、アルスは思わず彼女に身を寄せる。
白い空間に、沈黙が落ちた。
凄惨な光景が消え、再び白い空間だけが残った。
ルーナは息を詰めたまま、言葉を失っていた。
胸の奥に残る重さだけが、現実だった。
アルスもまた、彼女の袖をぎゅっと咥え、じっと前を見つめている。
『――あれが、この島の過去です』
巫女の影が、静かに語り出す。
『世界は、完全ではありません。歪みは、どの時代にも生じます。そして――その歪みが、形を持った結果、それが、あなた方の見た大魔物でした』
「……じゃあ、あれは……」
ルーナの声が、かすかに震える。
「最初から、悪だったわけじゃない……?」
巫女は、否定も肯定もしなかった。
『壊す意思があったかどうか、それを私たちは測る術を持ちませんでした。ただ、存在するだけで、世界が、耐えられなかった――それだけです』
巫女の声は、淡々としているが、そこには確かな悔恨が滲んでいた。
『人は、理解できないものを恐れます。恐れはやがて、縛る理由へと変わる。そして……縛るために、力を求めました』
白い空間に、新たな映像が浮かび上がる。
集う人々。
重ねられる祈り。
描かれる魔法陣。
そして、島を囲むように集うシャチたち。
「……シャチが、封印に……?」
ルーナの呟きに、巫女は小さく頷いた。
『彼らは、武器ではありませんでした。番人でもありませんでした』
わずかな間。
そして、はっきりと告げる。
『シャチは――拒んだのです』
アルスが、びくりと身を震わせる。
『倒すことを拒み、消し去ることを拒み、ただ、世界が壊れない位置に留めることを、選びました』
その言葉は、明らかにアルスへ向けられていた。
『戦うためではない』
『縛るためでもない』
『離れず』
『耐え』
『見届けるために』
アルスは、思わず一歩前へ出る。
『……じゃあ、ぼくたちは……ずっと……』
巫女は、優しく首を振った。
『役目ではありません、在り方です。拒み、耐え、見届ける。それが、守護獣という存在の意味でした』
アルスの喉が、小さく鳴る。
だが――巫女の声は、そこで一度、鈍った。
『ですが……』
空間が、ひやりと冷える。
『その封印は、完全ではありませんでした。歪みを留めるには、世界の内側だけでは足りなかった。世界の外側に錨が、必要だったのです』
ルーナの背筋に、冷たいものが走る。
『一体の守護者が永遠に、この海と島に縛られることによって』
ルーナは、息を呑んだ。
「……一体の、守護者……?」
巫女は、そこで初めて名を口にする。
『その名は……モルド』
それだけだった。
姿も、役割の詳細も、語られない。
『それ以上は、語るべきではありません。未来を、決めてしまうから』
アルスの目に、涙が溜まる。
『……ぼく、戦わなくても、いいの? 強くなくても……いいの?』
巫女の影は、そっと微笑んだ。
『歌を忘れなければあなたは、もう十分です』
その言葉が、アルスの胸に深く沈む。
――そして、巫女の視線はルーナへ移った。
『ですが……』
空気が、わずかに張り詰める。
『あなたは、人です。拒むことも、留めることも、手を伸ばすことも、すべて、選べる立場にあります』
巫女は、答えを与えない。
ただ、問いだけを置く。
『助ければ、誰かが失われます。逃げれば、世界は保たれます。封じれば、封じた者は、孤独になります』
ルーナの心臓が、強く脈打つ。
『それでも――』
巫女は、静かに問う。
『あなたは、進みますか。それでも……手を、伸ばしますか』
ルーナは、すぐに答えられなかった。
喉が詰まり、視界が滲む。
「……あなたたちは……」
ようやく、声を絞り出す。
「その時……どうしたの?」
巫女の影は、少しだけ俯いた。
『私たちは……正しかったとは言えません』
それでも、顔を上げる。
『ですが――逃げませんでした』
白い空間に、静かな決意が満ちる。
『次に選ぶのはあなたたちです』
巫女の影は、ゆっくりと薄れていく。
消える直前――アルスにだけ、囁く。
『……歌を、忘れないで。歌は、拒むためではなく、繋ぐために、あるのです』
光が、静かに収束する。
そして――
「……っ!」
ルーナは、遺跡の前で膝をついていた。
アルスが、必死に身体を寄せてくる。
『ルーナ! 大丈夫!?』
「……ええ」
息を整え、立ち上がる。
そんなルーナに、ナミたちも駆け寄ってきた。
「お嬢様! ご無事ですか!?」
「いきなり消えたから驚いたのさ!」
「……でも、二人とも無事みたい」
「――ええ、みんなには心配かけたわ。でもわたしとアルスは平気よ。でも……」
そう伝えてから、ルーナは空を見上げる。
沈黙の島は、何も語らない。
だが確かに、選択を待っている。
そして遠く――名を呼ばれた守護者が、静かに、目を覚まそうとしていた。




