沈黙の島
「……大きい……!」
ルーナは、思わず息を呑んだ。
海面から覗くその半身だけでも、ただならぬ巨体だと分かる。
水中に沈む全身を想像すれば、アルスの一・五倍――いや、それ以上かもしれない。
何よりも目を引いたのは、その眼だった。
濁りを帯びた深紅。
怒りでも敵意でもない、だが感情の底が読み取れない色。
そこには、アルスにはない長い年月と沈黙の重みが宿っていた。
「……なんなのさ、あれ……」
「シャチ……だよね。でも……」
エルザとティノも、言葉を失っている。
ただ大きいだけではない。
見られているという感覚が、背筋を静かに冷やしていた。
その沈黙を破ったのは、ルーナだった。
「……あなたは、何者なの?」
一瞬の間――波音すら遠ざかったように感じた、その直後。
『――俺はモルドだ』
声は、頭の奥に直接落ちてきた。
低く、落ち着き払い、感情を削ぎ落としたような男の声。
『今となっては……孤独なシャチだ』
「……っ!」
ルーナは、はっきりと息を詰まらせた。
「このシャチの……言葉が……分かる……!?」
『えっ!? このヒトもしゃべれるの!? ぼくとおんなじだね!』
『……お前みたいな若造と、一緒にするな』
『むぅ!? なんか感じわる~い!』
即座に突き放され、アルスは露骨に頬を膨らませる。
だがモルドは、そんな反応には一切構わず、ただ静かにルーナだけを見つめていた。
「お嬢様……」
ナミが低く声を落とす。
「まさか……そのシャチの言葉まで、お分かりなのですか?」
「ええ」
ルーナはゆっくりとうなずいた。
「アルスと同じように……いえ、それ以上にはっきりと、言葉が届いてくるわ」
「本当なのか!?」
「ええ。……モルド、という名前だそうよ」
その名を口にした瞬間、モルドの赤い眼が、わずかに細められた気がした。
ルーナは、改めて問いかける。
「モルド……あなたは、わたしたちに何の用なの?」
『この先を進めば、沈黙の島がある』
淡々とした声。
『だが、あそこに――お前たちの求めるものなど、何一つない』
『そんなの、行ってみなきゃ分かんないよ!』
即座に反論するアルス。
だが、モルドは怒りも呆れも見せず、ただ、ほんのわずかに頭を垂れた。
『……それでも行くというなら、止めはしない』
そして、静かに続ける。
『だが――警告はした』
それだけだった。
次の瞬間、モルドは大きく尾びれを持ち上げ、煌めくセレーネブルーの海へと、音もなく沈んでいった。
その背中は、振り返ることすらなかった。
『……なんだったんだろ。ワケわかんないヤツ……』
アルスの戸惑い混じりの声に、ルーナは静かに答える。
「……でも、嘘を言っているようには思えなかったわ」
「結局、あのシャチは何て言ってたの?」
ティノの問いに、ルーナは今聞いた言葉をそのまま伝える。
「――求めるものは何一つない……ですか」
ナミは顎に手を当て、思案する。
そこへエルザが、きっぱりと言い切った。
「そんなの、勝手に決められちゃ困るのさ! 探検少女たるもの、この目で確かめるまでは引き返さない!」
「……そうね」
ルーナは静かに微笑む。
「わたしも、同じ気持ちよ」
「ふふ~ん!」
胸を張るエルザに、ルーナは自分にないその膨らみに一瞬だけ視線を落とし――すぐにぷいと顔を背けた。
「……わたしだって、成長期なんだから」
「……どうかした?」
「なんでもないわっ!」
発育途上の胸に手を添えて小さく咳払いをしてから、ルーナは前を向く。
「行きましょう、沈黙の島へ」
「……あの島に行くんだよね」
「ええ。決めたわ」
「かしこまりました、お嬢様」
ナミが舵を切る。
アルーナ号は再び進み出し、沈黙の島へと、確かな航路を描き始めた。
船を進めるごとに、沈黙の島は確かに近づいていった。
黒々とした森影に縁取られたその島は、海のきらめきの中にぽつりと浮かび、まるで音という概念だけが切り取られた場所のように見える。
「モルドはああ言ってたけど……わたし、あそこに何かがあるって思えてならないの」
「そうなのさ! この探検少女エルザ、未知なる場所には足を運ばずにいられない!」
「ふふっ、エルザらしいわ」
「そうか?」
いつも通りの快活なやり取りに、ルーナは小さく微笑んだ。
だが、その笑みはどこか張り付いたようでもあった。
そのとき――船首に立っていたティノが、ぽつりと呟く。
「……島の近くの海、なんか変だ」
「変……?」
「静かすぎるんだよ。風もあるし、流れもあるはずなのに……波が一つも立ってない」
言われて気づく。島を囲う海だけが、鏡のように凪いでいる。
水面は揺れず、きらめきもない。ただ、深く、暗く、沈んでいる。
「……これは、不自然ですね」
「でも――下がらないわ。このまま進みましょう」
「かしこまりました、お嬢様」
ナミが舵を切る。アルーナ号は、音を立てぬ海へと踏み込んでいった。
その瞬間だった。
船の隣を泳いでいたアルスが、急に動きを止めた。
「アルス……?」
『ルーナ……これ以上進むの、こわい……!』
アルスの声はいつにない恐怖に震えていた。
ルーナは胸を締めつけられる思いで、アルスを見つめる。
「……そう。無理はしないわ。ここで待っていてくれても――」
『それは……それでもっとイヤ!』
アルスは首を振る。
『こわいけど……ルーナが行くなら、ぼくも行く!』
その決意に、ルーナは一瞬目を閉じ、そして微笑んだ。
「ありがとう、アルス。……一緒に行きましょう」
やがて浅瀬に入り、錨を下ろす。
「この先は船では無理そうですね。ボートで近づきましょう」
「キュイ(それならぼくが押すよ)」
「ありがとう、頼りにしてるわ」
小型ボートに乗り換え、アルスが静かにそれを押す。
浜辺にたどり着いた瞬間――足元の砂が、音もなく沈んだ。
「……ここでも、波の音がしない」
「島そのものが……息を殺しているみたいですね」
「逆に燃えてきたのさ! ここまで来たら引き返せない!」
エルザはそう言って、ずんずんと先へ進んでいく。
「待ちなさい、エルザ!」
ルーナも後を追う。ティノとナミが続き、アルスは海から浮かぶように並走する。
風は吹いている。木々は揺れている。
――なのに、音だけが存在しない。
この島は、何かを眠らせているのか。それとも、目覚めを拒んでいるのか。
沈黙の島。その奥で、彼らを待つものは――まだ、何一つ語ろうとはしていなかった。




