煌めく海域
オーロラのように煌めく海を進むアルーナ号の上で、ルーナはしばし言葉を失っていた。
波が立つたび、海は淡く光を返す。
それは反射ではなく、内側から湧き上がるような輝きだった。
「……本当に、きれい……」
「夜空が、そのまま海に落ちたみたいなのさ……」
エルザの言葉に、ルーナは小さくうなずく。
頭上の空は、星も月もない完全な闇。
けれど足元の海だけが、確かに夜を照らしている。
まるで――空と海が入れ替わった世界に迷い込んだかのようだった。
「誠に……不思議な海域ですね。理屈では説明できませんが、確かにここは別の海です」
「おじいちゃんの本に書いてあった通りなのさ! やっぱり、セレーネブルーは本当にあったんだ!」
興奮気味のエルザの横で、ティノは静かに胸元の光貝を握りしめていた。
「……父さん、母さん、ミナ……オレ、本当に……ここまで来られたよ」
震えるその声に、ルーナはそっと背後からティノを抱きしめる。
「え……?」
「あなたがいてくれたから、この海路に辿り着けたのよ。それは、誇っていいことだわ」
ティノは小さな獣耳をピクピク動かして一瞬戸惑い、やがて小さく息を吐いた。
「……うん。ありがとう、ルーナさん。……だからって、頭に頬ずりするのはやめてくれない?」
「えー? だってフワフワで気持ちいいんだもの」
「困るって……」
「――やっぱり、ルーナは罪な女なのさ」
エルザの呆れ半分の声に、場がふっと和らぐ。
『……ゴホン!』
わざとらしい咳払いが、海面から響いた。
『ねえルーナ、そろそろこっちも見てほしいんだけど!』
ルーナが視線を向けた、その先で――黒い影が、いくつも海面を割って現れた。
次々と姿を現す、流線型の巨体。
鎌のような背びれ。
噴き上がる白い息。
「……シャチ……?」
「しかも……こんなに……!」
十頭――いや、それ以上。
壮観としか言いようのないシャチの群れが、アルーナ号の周囲を取り囲んでいた。
『ぼくの仲間……こんなにいたんだ!』
アルスの声は、弾むように、けれど少しだけ震えていた。
リリが嬉しそうに鳴きながら群れの中へ戻ると、シャチたちは代わる代わる彼女に寄り添い、身体をすり合わせる。
ルーナには分かった。ここは――リリの帰る場所なのだと。
そのとき、一際大きく、年老いた雌のシャチが、ゆっくりと前へ出てきた。
「キュウ……」
「キュイ……」
短い鳴き交わし。
リリは、少し気まずそうに身体を縮める。
「……叱られてる?」
「ええ……おそらく。長として、心配していたのでしょう」
ルーナが見守る中、リリがぺろりと舌を出す。
それを、年長の雌が軽く噛む。
すると今度は年長の雌が出した舌を、リリが軽く噛んだ。
「あっ!?」
「大丈夫よ、エルザ。それはシャチ流の仲直りの挨拶だから」
前世での知識と記憶が、自然と口をついて出た。
『このシャチね、こう言ってる。孫娘を送り届けてくれて、ありがとうって』
「……孫娘。あなたが、群れの長なのね」
ルーナは、恐れもなく、その巨大な頭にそっと手を置いた。
「会えて嬉しいわ。あなたたちの海に、迎えてくれてありがとう」
「キュウ……」
穏やかな鳴き声が返る。
『グランマって呼んでほしいんだって。それが、私の名――だそうだよ』
「分かったわ。よろしくね、グランマ」
グランマは、ルーナの手にそっと口づけるように触れた。
それを合図に、他のシャチたちも次々と近づいてくる。
「キュイ!」
「キュルル!」
「キュ~!」
「分かった、分かったわ!わたしはルーナ。みんな、よろしくね!」
「わたくしは専属メイドのナミでございます」
「あたしはエルザなのさ!」
「ティノ……です」
紹介を終えると、グランマはゆったりと胸びれを振った。
それは、歓迎の合図。
「……夢みたい」
ルーナは、胸がいっぱいになるのを感じながら、そう呟いた。
こうしてアルーナ号は、シャチたちの群れに迎えられながら、セレーネブルーの奥へと進んでいくのだった。
しばらく進むと、水平線の向こうに黒い影が浮かび上がってきた。
「あれって……陸地じゃない!?」
「もしかしたら島かもしれないのさ!」
「ということは……人がいる可能性も……!?」
まだ見ぬ陸地に、ルーナ、エルザ、ティノの胸が高鳴る。
長い航海の果てに見る確かな大地は、それだけで心を引き寄せる力を持っていた。
「久しぶりの陸地ですね……」
ナミも双眼鏡越しに島影を見つめ、静かに言葉を添える。
「上陸する価値は、ありそうです」
しかしその時、シャチの群れに並走していたアルスが、珍しく慎重な声を出した。
『……あの島には、近寄らないほうがいいって』
「え……?」
ルーナが振り返ると、アルスは大きな目でこちらを見つめている。
『シャチたちが言ってる。――あそこは、沈黙の島だって』
「それは……本当なの?」
『うん』
アルスは、はっきりとうなずいた。
甲板に、短い沈黙が落ちる。
ルーナは視線を島へ戻し、静かに考えを巡らせた。
(この二ヶ月の航海で、物資は確実に減っている。みんなも疲れているし……何より、この島は何かを秘めている)
危険かもしれない。
だが、無視できない呼びかけを感じていた。
「――シャチたちの警告を無視するようで心苦しいけれど」
ルーナは決意を込めて言った。
「わたしたちは、あの島を目指すわ」
『……それなら』
アルスは少し間を置いて、優しく続ける。
『ぼくも一緒に行くよ』
海面から小さく跳ねるアルスの姿に、ルーナは微笑んだ。
「ありがとう、アルス。――ナミ、進路をあの島へ!」
「かしこまりました、お嬢様」
「よーっし! 面舵一杯なのさ!」
こうしてアルーナ号は、セレーネブルーの中心にぽつりと浮かぶ島へと進路を取った。
島へ近づくにつれ、不思議な変化が起き始める。
先ほどまで周囲を取り囲んでいたシャチの群れが、気づけば一頭、また一頭と、音もなく姿を消していったのだ。
『……みんなどっか行っちゃった』
ぽつりと呟くアルスの声に、ルーナは胸を締め付けられる。
「アルス……」
だが、アルスはすぐに顔を上げた。
『大丈夫。ぼくは、いつだってルーナのそばにいたいから』
「……ありがとう」
ルーナはアルスの頭をそっと抱き寄せる。
「あなたは、わたしの最愛のパートナーよ」
その時だった。
「……ルーナさん、あれ……!」
ティノが、緊張を帯びた声で指を差す。
その先――海面を裂くように突き出した、一本の背びれ。
これまで見てきた雌のシャチたちのものとは明らかに違う。
高く、真っ直ぐにそびえる、完璧な二等辺三角形。
「……アルスと同じ、雄のシャチ……!」
だが、アルスよりもさらに大きく、堂々としている。
前世では、狭い水槽の中で折れ曲がった背びれしか知らなかったルーナにとって、その姿はあまりにも――美しく、威厳に満ちていた。
次の瞬間。その雄シャチが、凄まじい速度でアルーナ号へ向かってきた。
「こっちに来るのさ!?」
「いかがいたしましょう、お嬢様!?」
一瞬の緊張。
だがルーナは、迷いなく言った。
「――船を止めて。様子を見るわ。シャチは、理由なく人を襲ったりしないもの」
「かしこまりましたっ」
ナミが舵を切り、アルーナ号が静止する。
そして――そのシャチは、船首の前でぴたりと動きを止め、ゆっくりと海面から顔を出した。
向かって右側のアイパッチ。そこに刻まれた、深く、はっきりとした傷痕。
ただ者ではない――誰の目にも、そう分かる存在だった。




