セレーネブルーへの入り口
二頭のシャチに導かれながらアルーナ号を進めることしばらく、リリがふいに泳ぎを止めた。
海は不思議なほど静まり返り、波ひとつ立っていない。
『この辺り、だって。リリがそう言ってるよ』
「……ここが?」
ルーナは辺りを見渡した。
空も海も、これまでと変わらない――少なくとも、見た目には。
「セレーネブルーへの入口があるようには……」
「キュウ」
そのとき、リリが短く鳴いた。
『夜まで待つんだって』
「夜まで……そうなのね」
ルーナは小さく息を吐き、二頭のシャチの頭を優しく撫でた。
「分かったわ。ふたりとも、教えてくれてありがとう」
そして振り返り、仲間たちに告げる。
「どうやら夜にならないと、セレーネブルーへの道は開かないみたい。それまで、ここで待ちましょう」
「かしこまりました、お嬢様」
「む~! 目の前まで来て足止めなんて、もどかしいのさ……!」
「エルザさん、もうすぐなんだから落ち着いて」
「わ、分かってるのさ……!」
年下のティノにたしなめられ、エルザはむくれながらも大人しくなる。
やがて錨が下ろされ、船は静かな海に身を委ねた。
ルーナは船縁に腰を下ろし、改めてリリに声をかける。
「ねえ、リリ。セレーネブルーって、どんな場所なの?」
「キュイィ」
『教えてくれるって。……えっとね、セレーネブルーは――シャチたちの楽園なんだって』
「楽園……!」
ルーナの胸が高鳴る。
「それじゃあ……あなたたちみたいなシャチが、他にもたくさん?」
「キュイ!」
『うん、たくさんいるって!』
その言葉に、ルーナの表情がぱっと明るくなる。
「素敵……! わたし、あなたたちみたいなシャチが本当に大好きなの」
「キュウ、キュイ~!」
『ぼくも愛してるよね!?』
「もちろんよ、アルス。あなたが一番よ」
頬に口づけを受けて、アルスは目を細めた。
『えへへ~! リリには負けないもん!』
「キュウ……キュッ」
次の瞬間、リリが水中で勢いよく加速し、海面から高く跳び上がった。
「わあ……!」
「すごいジャンプなのさ!」
「オレでもあんなのは無理だ……」
見事な跳躍に歓声が上がる。
それを見たアルスが、むっとしたように尾を振った。
『むぅ、ぼくだってできるもん!』
そして巨体をしならせ、豪快に海面から跳躍する。
着水と同時に、水柱が高く上がった。
「さすがアルスね!」
「アルスも負けてないのさ!」
『へへ~ん!』
得意げに胸を張るアルスに、リリは楽しそうに尾を振った。
「……まるで本当の兄妹みたいですね」
「ええ。アルス、あんなに楽しそうな顔、久しぶりに見たわ」
張り合いながらも、同じ海を泳ぐ二頭のシャチ。
その姿を見つめながら、ルーナは胸の奥に静かな確信を抱いていた。
(――セレーネブルーは、きっともうすぐ)
穏やかな海と、無邪気な笑い声。
嵐のような試練を越えた先で訪れた、束の間の安らぎだった。
そうして穏やかな時間を過ごしているうちに、気づけば空は星一つない闇に包まれていた。
月もなく、雲すら見えない。
まるで夜そのものが、世界を覆い隠してしまったかのようだ。
「……ついに夜になったわ」
「やっとか! 待ちくたびれたのさ!」
「セレーネブルーが……ついに……」
胸の奥に、期待と緊張が同時に満ちていく。
そのときだった。
静まり返った海面から、リリが小さく跳ね、何かを確かめるように泳ぎ出した。
『ついてきて、だって』
「分かったわ、アルス。――ナミ、出発よ」
「かしこまりました」
皆で息を合わせて錨を引き上げ、ナミが慎重に舵を切る。
アルーナ号は、何も映さない闇の海へと進み出した。
「キュイ!」
――だが、その直後。
進んでいたはずのリリの姿が、ふっと闇に溶けるように消えた。
「リリが……消えた!?」
「そんな……!」
「これじゃ、どこへ行けばいいか分からないのさ!」
不安の声が甲板に広がる中、ティノだけが静かに耳を澄ませていた。
小さな獣耳が、微かに震える。
「……消えたんじゃない」
「え?」
ティノは、闇の先をじっと見つめたまま続ける。
「見えなくなっただけだ。……ここから先、海の在り方が変わってる」
『大丈夫。リリは、ちゃんとこの先で待ってるよ』
アルスの声が重なった、その瞬間――ルーナの胸元で、光貝がふっと熱を帯びた。
「これは……!」
「オレのも……!」
二人の光貝が同時に輝き始める。
淡い七色の光が、闇の海へと細い道筋を描くように放たれた。
――そして。
真っ黒だった海が、息を吹き返したかのように、ゆっくりと光り始める。
波の一つ一つが淡く煌めき、まるで海そのものが夜空となったかのように、オーロラの光が広がっていった。
「……きれい……」
「これって……!」
「ザップドス様が言っていたのと、まったく同じなのさ……!」
言葉を失う一同の中で、ルーナは確信する。
「……間違いない。この光が、セレーネブルーへの道なんだわ」
『みんな、行こう』
アルスがそう告げ、静かに泳ぎ出す。
アルーナ号もまた、その背を追うように進み始めた。
光る海を進むにつれ、感覚が少しずつ変わっていく。
波の音が遠くなり、風の感触さえ、どこか柔らかい。
やがて――闇の奥に、確かな輪郭が現れた。
「……リリ!」
「キュウ!」
先ほどまで見えなかったはずのリリが、穏やかな光の中に姿を現す。
『セレーネブルーは、もうすぐだって』
「教えてくれてありがとう、アルス。――みんな、もうすぐよ」
「ついに……!」
「本当に……あったんだ……!」
そのとき、アルーナ号の進路を、黄金色の魚群が横切った。
月も星もない夜の中で、魚たちはまるで流れる光そのもののように、静かに舞っている。
「黄金の……魚……」
「こんなの、見たことない……!」
リリが、歓迎するように海面から上半身を現した。
「キュイイ!」
『ようこそ、セレーネブルーへ――だって』
その言葉とともに、海はさらに深く、柔らかく輝いた。
――こうしてルーナたちは、伝承の先にある境界の海セレーネブルーへと、ついに辿り着いたのだった。




