もう一頭のシャチ
出航から二ヶ月が過ぎたある日。
アルーナ号は、久しぶりに穏やかな海を進んでいた。
「今日も順調ね」
「ええ。ティノ様が潮を読んでくださるおかげで、安全な航路を保てています」
「そ、そんな……」
ナミの言葉に、ティノは照れくさそうに頭をかく。
その横を、アルスが楽しげに泳いでいた。
時折、巨体で海面を割って跳ねる姿は、すっかり日常の光景になっている。
――だが。
次の瞬間、アルスが急に速度を上げ、船を追い抜いた。
「アルス!?」
「お嬢様、追いますか?」
「ええ、お願い!」
「面舵一杯なのさ!」
全速力で追いかけた先――海面が、異様に盛り上がっていた。
「……あれは……」
「クラーケンなのさ!」
水面から覗くのは、船の全長にも匹敵する巨大な触手。
それが、何かを絡め取るように蠢いている。
アルスはその触手に噛みつき、必死に引き剥がそうとしていた。
「アルス、どうしたの!?」
『このイカ……仲間を捕まえてる!!』
その声に、ルーナの胸が強く打たれる。
(……仲間……!)
「あのクラーケンを止めるわ!」
「お待ちください、お嬢様! クラーケンは船をも容易に沈める強力な魔物です!」
「分かってる。でも、放っておけない!」
迷いは一瞬だった。
「……かしこまりました」
「オレも行く……!」
ナミが船を安全圏へ寄せる間に、ティノが銛を握って海へ飛び込む。
水を切るように泳ぎ、アルスの元へ辿り着く。
「アルスさん!」
「キュイ(来てくれたんだ)!」
クラーケンは、二匹の動きに気づき、複数の触手を伸ばした。
アルスがその一部に噛みつき、動きを止める。
「……父さんが言ってた」
ティノは息を整えながら叫ぶ。
「クラーケンの急所は……目と目の間!」
触手の隙を縫い、ティノは一気に距離を詰める。
「今だ――!」
水面を蹴り、銛を構えて跳び上がる。
「ティノくん!」
「行けええっ!」
――だが。
銛は、厚い肉に阻まれ、深くは届かなかった。
「っ……!」
その一瞬の硬直を、クラーケンは逃さない。
別の触手が伸び、ティノの身体を絡め取った。
「うわっ……!」
「ティノくん!!」
同時に、アルスも別の触手に捕まり、強く締め上げられる。
『ぐ……っ!!』
海面が荒れ、二匹の動きが止まる。
「……ダメ……!」
ルーナの胸が、強く締めつけられた。
その背中を、エルザが勢いよく叩く。
「止まるな、ルーナ!」
「……そうね!」
エルザは小さな杖を取り出し、呪文を放つ。
「探検少女の力を見せてやるのさ! ファイヤー・バレット!!」
だが、距離が足りず、火の弾は途中で霧散した。
「くっ……!」
「これ以上近づけば、船が捕まります!」
ナミの声に、ルーナは歯を噛みしめる。
(近づけない……でも、遠くからじゃ届かない……)
そのとき、ルーナの脳裏に、前世の記憶が閃いた。
――水面を滑る、シャチと人の演目。
「……違う」
ルーナは、はっと息を呑む。
「アルスじゃない……わたしが動くのよ! ――エルザ、ついてきて!」
「おっ、何か思いついたのさ!?」
ルーナは船縁に立ち、海へ向けて手をかざす。
「――アイス・バーン!」
海面が凍り、小さな氷の足場が生まれる。
「この程度で……?」
「十分よ!」
ルーナはそこへ跳び下り、すぐさま次の魔法を放った。
「アクア・キャノン!!」
水流が氷を押し出し、即席の滑走路が生まれる。
「なるほど!」
エルザが理解する。
「これなら近づけるのさ!」
二人は安全な距離を保ったまま、前へ進む。
「ファイヤー・バレット!!」
今度は、火の弾が触手に直撃し、締めつけが緩む。
「今よ、アルス!」
『……うん!!』
自由になったアルスは、全身の力を込めて跳ね上がった。
触手をすり抜け、一直線に――噛み砕く。
目と目の間へ、渾身の一撃。
クラーケンの巨体が痙攣し、やがて白濁しながら沈んでいく。
海が、静かさを取り戻した。
浮かび上がる影が、二つ。
一つはアルス。
もう一つは……一回り小柄な、もう一頭のシャチ。
「……アルス」
ルーナは、はっと息を呑む。
「この子を……助けたかったのね」
アルスは、静かに頷いた。
『……うん。ひとりじゃ、なかった』
そしてもう一頭のシャチに一瞬だけ視線を向けたアルスは、すぐにルーナの方を振り返った。
『ルーナ。この子、さっきのクラーケンに捕まって……まだ元気がないんだ。助けてあげてほしい』
初めて巡り会えた同族を案じるアルスの声音に、ルーナは迷うことなく微笑んだ。
「ええ、もちろんよ」
そう言ってルーナは手をかざす。
「――アクア・リラクゼーション」
淡い青の光が水面に広がり、もう一頭のシャチをやさしく包み込んでいく。
荒れた呼吸がゆっくりと整い、その大きな体から緊張がほどけていくのが分かった。
「――キュウ?」
不思議そうに鳴くその声に、ルーナはそっと頷く。
「もう大丈夫よ」
「キュイ……キュイ~!」
嬉しそうに鳴き、海面で胸びれを揺らす姿を見て、アルスが少し誇らしげに告げた。
『ありがとう、って言ってるよ。ルーナ』
通訳越しに伝わる感謝を受け止めながら、ルーナはその頭にそっと手を添える。
「困ったときはお互い様だわ」
ふと、改めてその姿を見つめて気づく。
「……それにしても、本当にシャチがいたのね。 アルスより少し小さいし……女の子、かしら?」
各ひれはアルスよりも小ぶりで、背びれは弓なりに少し湾曲している。
それはまさしく、雌のシャチの特徴だった。
『この子、リリっていうんだって』
「リリ……可愛らしい名前ね」
「キュイ!」
その名を呼ばれたリリは、海面から頭を垂直に突き出すように持ち上げ、胸びれをぱたぱたと揺らして喜びを表現した。
その様子を見て、アルスが続ける。
『それから……リリがね、セレーネブルーに連れていってくれるって言ってる』
「それ、本当!?」
驚きに声を上げたところで、状況が分からないエルザが割り込んできた。
「――何々? どうしたのさ?」
ルーナは今分かっていることを、簡潔に仲間たちへ伝える。
「この子の名前はリリ。それから……セレーネブルーまで案内してくれるそうよ」
「――なるほど。シャチが導き手とは、これ以上ない幸運ですね」
「すごいラッキーなのさ!」
「セレーネブルーに……シャチ……夢みたいだ……」
「ほっぺたつねろっか? ティノ」
「――遠慮するよ、エルザさん」
そんな和やかなやり取りをよそに、リリは軽く跳ねるように海面から身を躍らせ、一定の方向へ泳ぎ出した。
『こっちだよ、ルーナ』
「ええ、分かったわ」
ルーナはすぐにナミへ指示を出す。
「ナミ、アルスとリリに続いて」
「かしこまりました」
二頭のシャチを先導に、アルーナ号は再び進み始める。
未知の海の先へ――今度は、確かな導きを得て。




