セレーネブルーの兆し
アルスの導きを頼りに霧の海域を抜けた頃には、辺りはすっかり闇夜に包まれていた。
「……いつの間にか、夜になったのね」
「でも……おかしい。星も月もない夜なんて、初めてだ……」
ティノは無意識のうちに、胸元の光貝をぎゅっと握りしめていた。
見上げた夜空には、月も星も存在せず――ただ、底の抜けたような闇が広がっている。
「……ザップドス様が言ってたのさ」
エルザが、低い声で続ける。
「セレーネブルーの直前で、月も星も消えた夜に包まれたって。……もしかしたら、今がそうなんじゃ……」
「つまり……セレーネブルーが、近いということですか?」
「多分、そういうことなのさ!」
その言葉に、ルーナは胸の前でそっと手を握った。
「……ついに、その時が来るのね……」
その瞬間だった。
――じわり、と。
ルーナの懐で、光貝が熱を帯び始めた。
「……これは……!?」
取り出した光貝は、七色の光を脈打つように放っている。
「ルーナさん……! オレのも……!」
「ティノくん……!」
ティノの首元に下げられた光貝も、同じ光で呼応するように輝いていた。
「まるで……」
ナミが息を呑む。
「……道を示しているかのようですね」
「セレーネブルーへの……道しるべなのさ!」
次の瞬間――二つの光が、漆黒の闇を裂くように空へ伸びた。
夜空に現れたのは、蛍光グリーンの広大な光の揺らめき。
「……オーロラ……!」
ルーナの胸に、記憶が蘇る。
――宿場町マターリで、ほんの一瞬だけ見た、あの淡い光。
「……やっぱり」
彼女は、確信するように呟いた。
「オーロラが……わたしたちを導いている……!」
「よーっし!」
エルザが声を張る。
「ナミ、面舵一杯なのさ!!」
「言われずとも、そのつもりでございます」
ナミが舵を切り、アルーナ号はオーロラの揺れる方向へ進路を変えた。
『待ってよ~!』
並走していたアルスも、慌てて後を追う。
――だが。
その直後、船首に立っていたティノが、はっと息を詰めた。
(……違う……!)
顔の感覚毛が、微細な歪みを捉える。
「……まずい……!」
「ティノくん!?」
叫ぶよりも早く――
ドンッ!
荒れ狂う波が、突如として船体を叩きつけた。
「きゃあっ!?」
『ルーナ!』
「お嬢様!」
大きく揺れた船の上で、バランスを崩したルーナをナミが抱き留める。
「ご無事ですか、お嬢様!?」
「ええ……ありがとう、ナミ」
「……しかし、これは……!」
前方の海は、まるで別の生き物のように荒れ狂っていた。
このままでは、進むことはおろか、姿勢を保つのも困難だ。
「どうするのさ……!?」
「ルーナさん……!」
仲間たちの視線が、一斉にルーナへ集まる。
(……わたしの判断が、みんなの命を左右する……)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
そのとき――
『ルーナ!』
アルスが、荒波を割って海面に顔を出した。
『ここは……ぼくが、船を押す!』
「アルス!? そんなこと……!」
『できるよ! ……やらなきゃ、ダメなんだ!』
揺れる瞳。
それでも、揺るがない意思。
ルーナは、深く息を吸い、そして――決めた。
「……分かったわ」
彼女は、はっきりと告げる。
「アルス、お願い! アルーナ号を――セレーネブルーへ導いて!!」
『……うんっ!!』
アルスは一度、大きく跳ねると――荒れ狂う海へと身を沈め、船の後方へ回り込んだ。
「……船が……」
「進んでる……!」
軋む音を立てながらも、アルーナ号は、確かに前へと押し出されていく。
こうして彼女たちは――導きの光と、仲間の覚悟に背を押されながら、荒ぶる潮の向こうへと、踏み出していった。
アルスが懸命に船を押し続けた一夜が明ける頃、荒れ狂っていた海はようやく静けさを取り戻していた。
「……抜けた、みたいね……」
そう呟いた瞬間、ルーナの足から力が抜けた。
その身体を、すぐさまナミが抱き留める。
「お嬢様……よく、踏みとどまられました」
「ナミ……でも、一番頑張ったのは……」
ルーナの視線が、後方の海へ向く。
そこには、海面に背中を浮かべ、ほとんど動かないアルスの姿があった。
「アルス……!」
「大丈夫!?」
エルザの声と同時に、ティノが迷いなく海へ飛び込む。
「アルスさん……!」
近づいたティノに、アルスはかすかに目を向けた。
『キュウ……』
掠れた鳴き声は、疲労を隠しきれていない。
「……かなり消耗してる。もう、ほとんど限界だ……」
「……そうか」
ティノの言葉に、エルザも唇を噛みしめた。
そのとき、アルスが残った力を振り絞るように身体を動かし、ゆっくりと甲板へ乗り上げた。
『……ルーナ……もう、ヘトヘト……』
その姿に、ルーナの胸がきゅっと締めつけられる。
「アルス……本当に、ありがとう」
ルーナは膝をつき、彼の大きな頭にそっと触れた。
「昨夜は……間違いなく、あなたがみんなを守ってくれた」
そして顔を上げる。
「ナミ、お願い。魚を」
「かしこまりました――コネクト」
船の貯蔵庫と繋げた空間がひらき、新鮮な魚が次々と現れる。
ルーナはその一匹を取り、アルスの口元へ差し出した。
「ほら……ゆっくり食べて」
『……えへへ……』
魚を受け取ったアルスは、ほんの少しだけ笑った。
その様子を見届けてから、ナミが静かに告げる。
「――本日は、ここで休息を取るべきでしょう」
「ええっ!? でも、セレーネブルーはもう……!」
「エルザさんっ」
ティノが、首を振る。
「今の状態で進んだら……また誰かが無理をする」
「……そうね」
ルーナも頷いた。
「ここまで来られたのは、みんなが無事だったからよ。この先も……それは変えたくない」
しばしの沈黙の後、エルザは大きく息を吐いた。
「……分かったのさ。今日は休もう」
ナミが手際よく指示を出し、アルーナ号は静かな海へ錨を下ろす。
荒波を越えたその先で、彼女たちは前へ進むために立ち止まるという選択をした。
それは弱さではなく――仲間としての、確かな強さだった。




