霧に包まれた海
昼下がりの海は穏やかだった。
アルーナ号は一定の速さで波を切り、帆は順調に風を受けている。
甲板ではエルザが舵輪のそばで鼻歌を口ずさみ、ナミは航路図に目を落としていた。
「今日も順調なのさ~。このまま行けば、いいペースだなっ」
その言葉に、ルーナも頷く。
「ええ。海も静かだし、アルスもご機嫌だものね」
『うん! 海、やさしい!』
並走するアルスが尾をゆったりと揺らす。
そんな彼の元に、どこからかイルカの群れが並列するようにやってきた。
「おおっ、イルカなのさ!」
「あれはノールイルカだわ! 去年の誕生クルーズで見たとき以来ね!」
半年も前にクルーズで披露されたノールイルカのショーを思い出したルーナは、今船のそばを泳ぐイルカたちに想いを馳せる。
「――よく見ると水族館にいたカマイルカそっくりだわ!」
ルーナの言う通り、鎌のように湾曲した背びれと白黒ツートンカラーの身体はさながら前世の水族館でもお馴染みだったカマイルカそのものだった。
(もしかしたらこの世界も地球と結構共通点多いのかしら?)
そんなことを考えながらルーナが見つめる先で、ノールイルカの群れがシャチのアルスを遊びに誘う。
『え、遊んでくれるの!? やったー!』
ノールイルカの群れと追いかけっこしながら、船と並列して泳ぐアルス。
「あんまり遠くへ行っちゃダメよ~」
その様子がまるで子供たちの戯れみたいで、ルーナは微笑ましく感じた。
ノールイルカが泳ぐ海も、晴れ渡る空も、見た目には何一つ問題はない――はずだった。
だが。
「…………」
船首に立っていたティノは、黙って海を見つめていた。
潮の色。
波の立ち方。
風が頬を撫でる感触。
――どれも、わずかに違う。
(……なんだ?)
はっきりと言葉にできない。
だが、胸の奥がざわつく。
ティノは無意識のうちに、顔の横に生えた細かな感覚毛をぴくりと動かした。
微細な風の流れが、毛先を伝って脳裏に届く。
(……風が、揺れてる)
強さではない。
向きでもない。
「重なり方」が、今までと違う。
ティノは甲板にしゃがみ込み、そっと海面へ指を伸ばした。
冷たい潮が、指先を撫でる。
(……深い)
同じ海なのに、底の気配が、急に遠くなったような感覚。
「……ティノくん?」
異変に気づいたルーナが声をかける。
「どうしたの? 何か見えた?」
ティノは一瞬、言葉に詰まった。
間違いかもしれない。
気のせいかもしれない。
でも――父と一緒に海に出ていた頃、この感覚のあとに何が来たかを、体が覚えていた。
「……ルーナさん」
ティノはゆっくり立ち上がり、真剣な眼差しで告げる。
「今すぐじゃないけど……この先、潮が変わる」
「潮が?」
エルザが眉をひそめる。
「嵐の気配なのか?」
「……分からない。でも――」
ティノは空を見上げる。
雲は薄く、風も穏やかだ。
それでも。
「……この海、さっきまでと呼吸が違う」
一瞬、甲板に沈黙が落ちた。
ナミが航路図から顔を上げる。
「どの程度の変化でしょうか?」
「……進めなくなる、かもしれない」
その言葉に、ルーナはそっとティノの肩に手を置いた。
「教えてくれてありがとう。あなたがそう感じたなら、無視できないわ」
アルスが低く鳴いた。
『……海、ちょっとだけ……変だよ』
守護獣の感覚もまた、同じものを捉えていた。
先ほどまで彼と遊んでいたノールイルカの群れも、いつの間にか姿を消していた。
アルーナ号は、変わらず前へ進んでいる。
だが――目に見えない境界がすぐそこまで迫っていること。
気づいているのは、まだこの船の中でもティノだけだった。
それから一ヶ月間進んだ時だった。
海の向こうが、ふっと白く霞む。
「……あれは……?」
「霧だ……!」
気づいた時には遅かった。
霧は音もなく広がり、アルーナ号を包み込むように濃さを増していく。
視界は数メートル先で途切れ、海と空の境目すら分からない。
「……参りましたね。これでは、前方の確認ができません」
舵を握るナミは歯を食いしばりながらも、船体の姿勢を必死に保っている。
「羅針盤もダメなのさ!」
エルザが叫ぶ。
「針が……回ってる! これじゃ、どっちに進んでるのか分からない!」
ティノの言う通り、羅針盤の針は定まらず、霧の中で不規則に震えていた。
「このままじゃ……遭難してしまう……!」
霧に閉ざされた世界で、ルーナの胸に不安が込み上げる。
そのとき――
『ルーナ、ここはぼくに任せて!』
霧の向こうから、はっきりとした声が届いた。
「アルス……!?」
『大丈夫。海の中なら、ぼくには見えるから』
ルーナははっと息を呑む。
(そうだわ……シャチは音で世界を捉える。視界を失っても、アルスは迷わない――!)
ルーナは拳を握り、迷いを振り払う。
「お願い、アルス! わたしたちを導いて!」
『うん、任せて!』
アルスは海中に身を沈め、低く澄んだ音を放つ。
そして進行方向を確かめるように、時折その巨体を海面へと躍らせた。
「今の方向ね……。ナミ、アルスの位置を目印に進んで!」
「かしこまりました」
ナミは深く息を整え、アルスの姿だけを頼りに舵を切る。
こうしてアルーナ号は、音と信頼だけを道標に、白い霧の海へと足を踏み入れていくのだった。




