また新たな門出
それからというもの、ルーナは王立図書館の静かな一角で、ひとり調べものをしていた。
ページをめくる音と、窓越しの光の揺らめきだけが、時間の流れを知らせてくれる。
(次はどこへ行こう……何か、きっかけが欲しい)
そんな思いを胸に、ルーナは古びた本棚を順に眺めていく。
背表紙の文字はどれも色あせ、触れるたびに埃が舞った。
「うーん……何か手がかりとかはないかしら?」
ぼやきながら指先を滑らせたその時、棚の奥でひときわ古い装丁の本が目に留まる。
羊皮紙のような手触り、金の縁取りもほとんど剥がれ落ちている。
「これは……?」
ルーナは慎重にその一冊を引き抜いた。
開いた瞬間、古いインクの匂いがふわりと立ちのぼる。
「すごく古い文献ね……。文字も掠れていてほとんど読めないわ」
眉をひそめつつもページを繰っていくと、やがてルーナの目が止まった。
そこには、淡いインクで描かれた一枚の挿絵――海の中で、長い背びれを持つ白黒の海獣と、それに手を差し伸べる女性の姿があった。
「これって……!」
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。
見間違えるはずがない。どこからどう見ても――シャチ。アルスと同じ姿だった。
「まさか、この世界にもアルス以外のシャチがいるってこと……?」
ページの隅にかすれて残った地名を、ルーナは指でなぞる。
――〈セレーネブルー〉。伝承の海。
古代より「夜の女神が眠る海」と呼ばれ、誰もたどり着けないとされている神秘の海域だった。
「こうしてはいられないわ!」
勢いよく立ち上がったルーナは、本を抱えたまま司書に借用の手続きを済ませ、そのまま宿へと駆け出した。
「アルス! これを見て!!」
『ん、どーしたの?』
宿屋の前で宙を泳ぎながら日向ぼっこしていたアルスの前に、ルーナが息を切らして駆け寄る。
差し出した本のページには、あの絵がしっかりと描かれていた。
「これって……ぼく?」
「そうなの! 見て、アルス。あなたの仲間が――この世界にもいるかもしれないの!」
「ぼくの……仲間……」
アルスは小さく呟き、ゆっくりと絵に顔を近づけた。
その瞳に映るのは、ほんの少しの驚きと、それ以上の戸惑い。
『……ほんとに、いるのかな。ぼく、ずっと一人だと思ってた』
「きっといるわ。だって、この絵の女性も、あなたと同じように誰かを想って描いたはずよ」
『ルーナ……』
ルーナはアルスの頭を優しく撫でる。
その笑顔は、どこか少女の頃に戻ったように輝いていた。
「ねぇアルス。わたしたち、行ってみましょう。この〈セレーネブルー〉へ」
『……うん! 行こう! ぼく、仲間に会いたい! ルーナと一緒に!』
アルスが力強く尾びれを打つと、水の粒が宙に舞った。
そのきらめきは、まるで新たな冒険の幕開けを祝福する光の粒のようだった。
「決まりね。ナミにも準備を頼まなくちゃ! アルス、今度の旅は――海の果てまで行くわよ!」
『うん! ぼく、どこまでも泳げる!』
その言葉と笑顔に、宿屋の周りの子どもたちまで拍手を送った。
こうして、ルーナとアルスの新たな目的――伝承の海の探訪が、静かに動き出したのだ。
王都の大通りは朝の光に包まれていた。
パン屋の煙突からは香ばしい匂いが漂い、通りを行く人々の笑い声が耳に心地よく響く。
あの日焼けた瓦も、職人たちの手で元の色を取り戻しつつある。
「ありがとう、ルーナ様」と誰かが声をかけ、ルーナは微笑み返した。
昨日までの喧噪が嘘のように穏やかな空気――けれど、どこか別れの匂いが混じっていた。
「ルーナさん、そろそろ旅立つんですよね!」
「えっ、今日なの!? もう少し一緒にいたかったなぁ!」
人混みをかき分け、ニッケとベルが息を切らせて走ってくる。
王都の門の前には、出発の準備を整えたルーナとアルス、そしてナミの姿があった。
「ニッケ、ベル!」
「間に合いましたね!」
「ほんと、ギリギリだったよ~!」
ベルが勢いよくルーナに抱きつく。
その柔らかで豊満な膨らみにルーナの顔が埋まり、思わず頬が赤く染まる。
「むぐっ!? ベル、ちょっと……息が……!」
「わっ、ご、ごめん! でも、ルーナちゃんが無事で本当によかったんだもん!」
「ふふ、ありがとう。もう危ないことはしないわ」
ベルは涙をぬぐいながらも笑顔を見せた。
一方のニッケは、少し照れくさそうに拳を差し出す。
「ウチら、ギルドで修行し直すんですよ。次に会うときは、もっと強くなってますから!」
「ええ、頼もしいわね」
「だからルーナさんも、その……そのへんのイケメン魔導士とかに負けないでくださいね!」
「誰がそのへんのイケメン魔導士よ!?」
「ははっ、つい言っちゃいました!」
そんなやり取りにベルがくすくすと笑う。
「ニッケちゃん、ルーナちゃんに恋愛フラグを立てようとしてない?」
「ち、違いますって!」
わいわいと笑い合う三人の姿に、ナミが柔らかく口元を緩めた。
「お嬢様がこうして笑っていらっしゃる……本当に久しぶりです」
「ナミもありがとう。あなたがいてくれなかったら、わたし……きっと迷っていたわ」
「お嬢様の道を照らすのが、わたくしの役目ですから」
「ふふ、相変わらず頼もしいのね」
ナミの真摯な言葉にルーナは微笑む。
その横で、アルスが嬉しそうに体をくねらせた。
『ねぇルーナ、もう行くの?』
「そうね。……でも、少しだけこの王都を見ていたいの」
ルーナは門の向こうに広がる街を見つめる。
修復が進む屋根、活気を取り戻した市場、笑い合う子どもたち。
ほんの数日前まで炎に包まれていた光景が、今は希望の色をしている。
「みんな、強いわね」
『うん。ルーナもだよ』
「そうかもしれないわね」
朝の光がルーナのポニーテールに結んだ銀髪を照らし、彼女は胸元のシャチのガラス細工に触れる。
その小さな光は、まるで彼女の心そのもののように優しく輝いた。
ルーナの瞳に映る朝日は、もう迷いのない色をしていた。
「お嬢様、次の目的地はどちらに?」
「南よ。伝承の海〈セレーネブルー〉――あの海の果てに、何かが待っている気がするの」
『ぼく、波の上を滑るの楽しみ!』
「まったく、あなたは本当に元気ね」
「……ですがお嬢様、あの海域は大変荒々しいとの噂もございます。ご用心を」
「ふふ、危険なほど燃えるのが冒険家の性ってものよ」
「まさかお嬢様まで……」
ナミが呆れたように肩を落とし、ニッケとベルが思わず吹き出した。
「ルーナさん、変わりませんね!」
「うん、いつも真っすぐで格好いい!」
「ありがとう。あなたたちも、どうか元気で」
ルーナが手を振ると、二人は泣き笑いの顔でうなずいた。
「――行ってらっしゃい、ルーナさん!」
「また絶対、帰ってきてねー!!」
「必ず戻るわ! そのときは、みんなでお茶会でもしましょう!」
『うん! ぼく、お魚いっぱい食べる!』
「もうアルスったら!」
笑い声が風に乗って王都の空を抜けていく。
門の外では騎士団のバルト団長が控えており、静かに敬礼を送った。
「君たちのおかげで、この国は救われた。どうか次の地でも無事で」
「ありがとうございます、団長さん!」
「ええ、またどこかでお会いしましょう」
アルスの尾びれがゆっくりと振り下ろされ、ルーナとナミを乗せた体が前へと進む。
朝日が王都を包み、街の屋根が黄金に光った。
丘を越えた先、風が優しく吹き抜ける。
『ねぇルーナ、あれ見て! 海が光ってる!』
「ほんと……綺麗」
彼女の頬を撫でる風は潮の香りを含み、旅の始まりを祝福するようだった。
ナミが小さく微笑み、手帳を閉じる。
「お嬢様の新たな旅路、ここに記しておきましょう。――第一章、完結、ですね」
「ええ。けど、第二章はもう始まってるのよ」
『ぼくたちの物語は、まだまだ続く!』
ルーナが笑い、アルスが力強く鳴く。
朝の風がその声を運び、遠い水平線まで響いていった。
王都の空に水の光が弧を描く。
それはまるで、再び飛び立つオルカロケットのようだった。
――そして、ルーナとアルスの新たな旅路が、静かに幕を開けた。




