海なき日々の兆し
アルスを連れてルーナたちが高台にある屋敷に帰ると、留守を預かっていたメイドたちが出迎えた。
「お帰りなさいませ、お館様」
「ああ、ただいま戻った」
ビンゴが軽く挨拶を交わして屋敷に入ろうとする。
ルーナたちも続こうとした、その時だった。
「アルス、あなたはここで待っていなさい」
『えぇ〜っ!? ぼくもルーナと一緒がいいのに〜!』
駄々をこねながらルーナにすり寄るアルスの姿に、メイドたちは悲鳴を上げた。
「な、なんですのあれは!?」
「魔物ですか!? まさか屋敷に入れるつもりじゃ……!」
ざわめき立つメイドたちを、ビンゴがたしなめる。
「落ち着け、皆の者。こやつはルーナの命の恩人だ」
だがパニックは容易に収まりそうになく、そこへ慌ただしく駆け寄ってきたのは、留守を守っていた婿養子のオスカーだった。
「何事ですか!?」
「オスカー、メイドたちを中へ通してやってくれ」
「かしこまりました、お義父様」
オスカーは冷静にメイドたちを誘導し、混乱を鎮める。
その背後から、第一公女ラビィもピンクのドレスを揺らして現れた。
「一体何の騒ぎなの!?」
アルスの姿に気づいたラビィは、目を見開き、顔を引きつらせる。
「ルーナ、それ……何なの!?」
「ラビィお姉さま、この子はアルス。わたしの恩人ですの! ――ほら、アルス、ご挨拶して」
「キュイッ!」
ぺこりとお辞儀するアルス。
しかしラビィは額に手を当て、大きくため息をついた。
「ルーナ……あなたって子は、また突拍子もないことを……」
「でもアルスはとってもお利口なの! 誰にも迷惑なんてかけませんわ!」
「私からもお願い申し上げますわ、お姉様」
「どうか、アルスのことを受け入れてもらえぬか」
ルーナに続いて、ララとビンゴも頭を下げる。
ラビィはしばし押し黙ったのち、ついに折れた。
「……お父様がそこまでおっしゃるなら、分かったわ」
「ほんとう!? ありがとうございます、ラビィお姉さま!」
ルーナがぱっと花開いたように笑うと、ラビィも苦笑を漏らす。
「まったく……あなたって子は。まさかこんなものを連れ帰ってくるなんて」
「ふふ、まあよいではないか」
にこやかに言うオスカーに、ラビィは肩をすくめた。
「……あなたも甘いわね」
――あれから、一ヶ月が経った。
アルスもすっかり屋敷での生活に慣れ……いや、慣れすぎてしまった。
今では宙に浮かびながら裏庭で昼寝をするのが日課になっている。
「アルス、お魚よ~」
ルーナとナミが、バケツからあふれんばかりの生魚を抱えてやってくると、アルスはぱちりと目を覚まし、嬉しそうに寄ってきた。
『お魚っ!』
「その前に、健康チェックよ」
『はーい』
ふわりと浮かび上がるアルスの体を、ルーナは目視で丁寧に確認していく。
「よし、怪我も異常もなし。はい、どうぞっ」
アルスが大きく口を開けると、ルーナはバケツを傾けて生魚を一気に流し込んだ。
『ごっくん! ごちそうさまっ』
「お粗末さまっ。……愛してるわ、アルス」
満足げなアルスの口元に、ルーナはそっと口づけを落とした。
――少し生臭いのは魚のせい。
でも、それさえもルーナには愛おしかった。
そんな幸せな日々。しかし屋敷では、ある問題が静かに膨らみつつあった。
屋敷の書斎では、机いっぱいに積まれた帳簿を前に、ビンゴとオスカーが肩を並べて頭を悩ませていた。
「……ううむ。アルスが来てからというもの、餌代がかさんでいるな」
「これは相当な負担ですね、お義父様……」
オスカーが手にした帳簿には、この一ヶ月にかかった生魚の代金がずらりと記されていた。
一日で何百匹もの魚をペロリと平らげる大食漢を抱えているが故、その餌代も莫大なものになっていた。
ビンゴは指を組んでうつむきつつ、ふと窓の外に目をやる。
裏庭には、ルーナと戯れながら宙を泳ぐアルスの姿。
「……だが、ルーナがあれほど毎日楽しそうにしているのは、これまでになかったことだ。間違いなく、アルスのおかげだろう」
「アルスを粗末にはできない。……ということですね」
「そういうことだ。我々も、できる限りルーナたちには金の心配をさせぬようにしよう」
「承知しました、お義父様」
二人は改めてうなずき合うが、その背後にはまだまだ山のような帳簿がそびえ立っていた。
それからさらに三週間ほどが経ったある日。
この日もルーナとナミは、生魚でいっぱいのバケツを手にアルスの元を訪れていた。
「アルス、ごはんよ~」
ところが――
『…………』
これまでなら飛びついてくるはずのアルスは、どこかぼんやりとした様子で空を漂っていた。
「おーい、アルス~!」
ルーナが声を張ると、ようやく彼ははっと我に返る。
『……あ、ごめん。どうしたの?』
「どうしたの、はこっちのセリフよ。食事の時間なのに、ぼーっとしちゃって」
ペコリと頭を下げたアルスに、ルーナは眉をひそめながらも、いつもの健康チェックを始めた。
「うーん……体に外傷はないわね。じゃあ、はい。どうぞ」
ルーナが鰯の束を差し出すと、アルスはそれをじっと見つめたまま、口を動かさない。
『……もっと脂の乗ったお魚がいいな』
「えっ……?」
今までそんなことを言ったことのないアルスの反応に、ルーナはナミと顔を見合わせる。
「わがまま言わないの、アルスっ」
『む~……』
ルーナに押しつけられるようにして、アルスはしぶしぶ鰯の束を口に入れ、飲み込んだ。
『……もういいや』
「ちょっと、まだ半分も残ってるのに!?」
『いらないったらいらないのっ!』
拒絶の勢いで思わず身体を振ったアルスの頭が、ルーナをはね飛ばしてしまった。
「きゃあっ!?」
「お嬢様!」
裏庭を転げたルーナに駆け寄り、ナミがその体を支える。
「お怪我はありませんか!?」
「うん、大丈夫。でも、アルス……」
振り返ったルーナの視線の先で、アルスは項垂れるように空を漂っていた。
『……ごめんなさい。ぼく、悪い子だ……』
その声は沈んでいて、いつもの元気さはどこにもなかった。
宙に浮かんだまま、アルスはルーナに背を向ける。
「アルス……あなた、もしかして……」
ルーナの胸をかすめたのは、言いようのない不安だった。
このとき彼女はまだ、それがアルスの心を蝕む海のない日々の兆しであることを、はっきりとは掴めていなかった――。




