起きてしまった事故
翌日、ルーナは屋敷に響き渡る重い衝撃音と振動で飛び起きた。
「な、何事なの!?」
「お嬢様、アルス様が……暴れております!」
「なんですって!?」
報告に駆け込んできたナミと共に、白い寝間着姿のまま部屋を飛び出す。
裏庭に出たルーナの目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
――アルスが屋敷の壁に頭突きを繰り返していたのだ。
ドォン! と大地が揺れるような音が響くたびに、壁の漆喰が剥がれ落ち、周囲の花壇は無惨に掘り返されている。
その巨体が生む荒々しい気配に、集まっていたメイドたちはおろおろと立ち尽くすばかりだった。
「一体何事か!」
駆けつけたビンゴとオスカーが声を上げる。
「これはひどい……!」
「ルーナ! 今すぐアルスを止めろ!」
「分かりました、お父さま!」
父の命に従い、ルーナはアルスへ駆け寄った。
「アルス! もうやめて! どうしちゃったの!?」
『……はっ、ルーナ……』
その声に我に返ったアルスは、周囲を見回してオロオロとし始める。
『ぼくは……なんてことを……。ルーナに嫌われちゃう……ぼく、悪い子だ……!』
怯えた声を残し、アルスは庭の小さな池へ飛び込み、暗い水面に姿を隠してしまった。
「アルス!」
必死に呼びかけるルーナの声にも応えず、庭には沈痛な空気が残された。
その夜。ルーナはどうしても眠れなかった。
「アルス……一体どうしちゃったの……?」
思い返せば異変の兆候はいくつもあった。
魚の選り好み、食欲の減退、無気力に漂う姿、そして今回の暴走――。
どれも、前世で水族館のシャチたちに見て見ぬふりをしていた、あのストレスの症状そのものだ。
「アルス、あなたは……」
いてもたってもいられず、ルーナは毛布を羽織って夜の庭へと向かった。
冷たい風に身を震わせながら池へ近づくと、そこにアルスが浮かんでいるのが見えた。
その瞳は焦点が合わず、どこか上の空のようだった。
「アルス……」
声をかけようとしたその時、アルスの口から低いうわ言が漏れる。
『……海……広いところ……泳ぎたい……』
それは広大な海への渇望を吐露する言葉だった。
胸に突き刺さるような寂しさに、ルーナは思わず足を止めた。
「アルス……あなた……」
その気配に気づいたのか、アルスははっとしてルーナを振り向く。
『ルーナ……! い、今の聞いてた?』
戸惑う声。
ルーナは重くうなずいた。
「アルス……やっぱりあなた、海に帰りたいのね?」
その問いに、アルスは顔を青ざめさせて必死に首を横に振る。
『いやだ! ぼくはルーナと一緒がいい!!』
「でもアルス、あなた最近ずっとおかしいじゃない!」
『それは……』
苦しげに口を閉ざすアルス。
その緊張を破るように、後方から控えめな声が届いた。
「お嬢様……こんな夜更けに外へ? 風邪を召してしまいます」
駆けつけたナミが毛布を掛け直し、心配そうに促す。
「……そうね」
ルーナは後ろ髪を引かれる思いでアルスを見つめながら、ナミと共に屋敷へ戻っていった。
池に残されたアルスは、ただ静かに暗い水面を漂っていた――。
その翌朝、屋敷の裏口にアルスの餌となる生魚の入った木箱を満載した馬車が入る。
「今月もご苦労」
表に出たビンゴが労を労うと、魚屋の男はにっこりと笑った。
「いえいえ、いつもご贔屓ありがとうございます~。そうそう、今回は注文通りリーガル鮭も入れてますよ」
「ルーナが頼んでいたな。ありがたく受け取ろう。――皆の者、魚を地下の貯蔵庫に運び入れろ」
ビンゴの指示で、集まっていたメイドたちが木箱を受け取っていそいそと地下に運び入れ始める。
そしてリーガル鮭がまるまる一匹入った布袋を、若いメイドが受け取った次の瞬間。
「キュイ~~(おいしそうなお魚~)!!」
アルスは全速力で突っ込んできた。
「きゃああああ!!」
馬車をも上回る速度で突き飛ばされた若いメイドは宙を舞い、石畳に背中から叩きつけられる。
鈍い音と共に、口から鮮血が飛び散った。
これにはメイドたちも騒然として逃げ惑った。
「大丈夫か!?」
ビンゴが抱き起こすも、彼女はぐったりとしたまま返事をしない。
「なんということだ……!」
「お義父様!」
「あなた!」
騒ぎを聞き付けてきたオスカーとステラに、ビンゴが迅速に指示を下した。
「すぐに医師を! 一刻を争うぞ!」
「分かりました!」
「お医者さんを呼んでくるわ!」
意識を失ったメイドを抱き抱えて屋敷に運ぶオスカーと、お医者さんを呼びに屋敷を出るステラ。
その場に取り残されたアルスは、震えながら動けずにいた。
『ぼく……ぼく、また悪い子だ……』
窓から騒ぎを見下ろすラビィは、冷ややかに吐き捨てる。
「……とうとうやってくれたわね。最初からこうなると分かっていたのに」




