アルスのわがまま
クルーズも終わりを迎え、ルーナたち一家は客船を降りて港へと戻ってきた。
「とても素晴らしい船旅でしたね」
母ステラが扇をたたみ、優雅に微笑む。
「ええ、本当に。まるで童心に帰ったようでしたわ。それに――海の守護獣に出会えるなんて、感激ですわ!」
姉ララは頬を紅潮させ、まだ夢見心地のように両手を胸の前で組んだ。
その傍らで父ビンゴが、ふと低く呟く。
「……海竜に襲われた時は、どうなるかと思ったが……アルスのおかげで助かった。改めて礼を言わねばな」
声に応じるように、足元の海からアルスが顔を出す。
だがその瞳は沈んでいて、喜びの色は見えなかった。
「アルス……」
『ルーナ、行っちゃうの?』
「ええ……わたしたち、お屋敷に帰らなきゃいけないの。また、会いに来るわ」
名残惜しげに顔を寄せて諭すルーナ。
しかしアルスは顔を歪め、子どものように叫んだ。
『やだ! やだやだやだ! ルーナ行かないで! ひとりはもうイヤだ!』
「アルス……でも、あなたは大きすぎて陸では暮らせないでしょう? ごめんなさい……」
『ルーナ……』
悲しげに瞬きを繰り返すアルス。
その顔にルーナはそっと唇を寄せ、囁いた。
「大好きよ、アルス。また必ず会おうね」
――その時だった。
彼女の脳裏に、聞いたこともない言葉がふっと浮かぶ。
【エアフロート】
「エアフロート……?」
思わず口にした瞬間、アルスの巨体がふわりと海面から浮き上がった。
「なっ……!?」
「空を……浮いてる!?」
「何事ですの!?」
一斉に声を上げる家族。
ナミが慌ててルーナの傍らに駆け寄る。
「もしやお嬢様……今、魔法をお使いに?」
「えっ? わたしはただ、頭に浮かんだ言葉を口にしただけよ」
困惑するルーナの前で、空中を泳ぐように寄ってきたアルスは声を弾ませる。
『わーい! これでルーナとおんなじ! 一緒に行けるね!』
「……もう、しょうがないんだから」
ルーナは肩をすくめながらも笑った。
そして真剣な瞳で父を見つめる。
「お願い、お父さま。アルスをお屋敷に連れていくことを許していただけませんか?」
「ルーナ……」
ビンゴは一瞬目を細め、隣のステラに視線を送る。
「……あの子は確かにルーナを救ってくれましたけれど、屋敷に迎えるとなれば費用も世間の目も重くのしかかります」
ステラの声は冷静で現実的。
しかしその瞳には、娘への理解も滲んでいた。
「母様……でも、あの子は奇跡のような存在ですわ! 海の精霊が舞い降りたみたい……ルーナにとっても、この上なく大切な友でしょう?」
ララが夢見るような表情で言葉を重ねる。
ビンゴは二人の言葉を静かに受け止め、それから深く頷いた。
「……そうだな。ステラ、ララ。お前たちの意見は分かった。――いいだろう、アルスの同行を許可する。ただし、最後まで責任を持って世話をするのだ」
「お父様!」
「ええ! もちろんですわ!」
歓喜に頬を染めるルーナの隣で、アルスもまた弾むような声を上げる。
『やったぁ! ルーナとずーっといっしょ!』
はしゃいで擦り寄ってくるアルスの大きな顔を、ルーナは両手でわしゃわしゃと撫でてやった。
こうして――空を泳ぐ不思議なシャチ・アルスと共に、ルーナの新たな日常が始まろうとしていた。
屋敷へ戻るため、ルーナたちはダックリバーの港町を馬車で進み始めた。
「……私たち、ずいぶん町の皆さんの注目を集めてますね」
「無理もないだろう、ステラ。なにせ、あの巨大な生き物が馬車と並んで空を泳いでいるんだからな」
母ステラと父ビンゴが言う通り、馬車のすぐ横を宙に漂いながら進むアルスの姿は、町人たちの目を惹きまくっていた。
一方、ルーナは幌から身を乗り出し、アルスと笑顔で言葉を交わしている。
『海の外って、こんなににぎやかなんだね!』
「そうよ、アルス。ダックリバーの港町はいつだって活気にあふれていて、とても素敵なの。私はこの町を愛してるわ。……もちろん、アルスのこともね」
そう言って、ルーナはアルスの顔に口づけし、両手でわしゃわしゃと撫でてやる。
『えへへっ、ぼくもルーナがだーいすき!』
無邪気に甘えるアルスを見て、ルーナの頬も自然とほころぶ。
(この世界でも、またアルスと一緒にいられるなんて……夢みたい)
そう思っていた、そのときだった。
アルスが突然、馬車から離れて急加速した。
「アルスっ!? 待ちなさい! ――馬車を止めて!」
ルーナは慌てて馬車を降り、ドレスの裾をつまみ上げてアルスを追いかける。
少し走った先――魚屋の前に到着した彼の姿を見つけた。
その巨体を前に、魚屋の店主はすっかり顔面蒼白になっていた。
「な、なんだこいつは……!?」
「こら、アルス! 勝手に離れたらダメでしょ! ――申し訳ありません、うちの子が驚かせてしまって!」
『あっ、ルーナ! ねえねえ、あのお魚……脂が乗ってて、とってもおいしそうだよ~!』
注意されても、アルスの視線はルーナと店先の鮮魚を行ったり来たり。
シャチは周囲を超音波で感知できる。
――位置、質感、密度……さらには美味しい魚の種類まで、きっちり把握しているのだ。
(盗み食いしないだけ、まだお利口なのかもしれないけど……)
彼の目が離れなかったのは、店先に飾られた見事な一匹――リーガル鮭。
最高級の鮭である。
「金貨三枚……!?」
値札を見て、ルーナは思わず目をむく。
「アルス、行くわよ」
『え~っ、ぼく、あのお魚たべた~い!』
「ダメよ! あんな高いの、お父さまが許してくださるはずがないわ!」
『ううぅ……』
唇を尖らせて、アルスはしゅんと肩を落とす。
そこへ、ビンゴたちも馬車で追いついてきた。
「ルーナ、いったい何事だ?」
「お父さま……それが、アルスがあのリーガル鮭をどうしても食べたいと……」
「ほう……あれか。たしかに高いが――まあ、仕方ないな」
そう言ってビンゴは金貨三枚を懐から取り出し、ルーナに手渡す。
「これで買ってあげなさい」
「えっ……本当に、よろしいのですか!?」
「アルスも、今は我が家の家族だろう? それに、娘を助けてくれた恩人でもある。……家族のためなら、金は惜しまないさ」
その言葉に、ルーナの胸がじんと温かくなる。
「お父さま……ありがとうございます! ――魚屋さん、リーガル鮭を一つください!」
「あいよっ!」
受け取った魚は想像以上に大きく、身がぎっしりと詰まっていた。
両腕で抱えたルーナは、思わずよろける。
「お、重っ……! アルス、これが欲しかったのね?」
『わーい!』
アルスはその鮭を受け取るなり――丸呑みした。
『ごちそうさまっ!』
「本当に……規格外の子だな……」
唖然と呟くビンゴ。
そこへナミも馬車を降りてきて、ルーナの袖にそっと触れる。
「お嬢様、そろそろ行きましょう」
「ええ。――アルス、また並んでついてきてね」
そう言って馬車に乗ろうとした瞬間、ドレスの裾がきゅっと引っ張られた。
『ルーナ、ぼくに乗ってよ』
つぶらな瞳で見上げるアルスは、まるで褒められたがっている大型犬のようだった。
「……もう、しょうがない子ね」
ルーナはナミを振り返る。
「ナミ、わたしアルスに乗るわ」
「お嬢様……お体が心配ですが……」
「大丈夫。アルスはとってもお利口なんだから」
「……分かりました。お気をつけて」
そうしてルーナは、アルスの頭にちょこんと乗って腰を下ろす。
ふわりと浮かぶ白と黒の背に揺られて、馬車と並びながら進んでいった。




