シャチのアルス
胸元に、ふわりと温かな感触が触れた。
氷のように冷えきっていた身体に、ゆっくりとぬくもりが戻ってくる。
まぶたを開けると、そこには――彼がいた。
曲がって横に折れた背びれ。
柔らかな瞳。
誰よりも大きく、誰よりも優しい存在。
(……アルス……会いたかった……!)
ルーナは涙を浮かべながら、そんな気持ちを念じるようにその背に抱きついた。
すると、不意に頭の中に――聞き慣れない、けれどどこか懐かしい少年の声が響いてきた。
『ぼくもだよ、トレーナーさん。やっと会えたね』
(えっ……この声って……まさか、アルス……!?)
『うん。やっと通じたんだ。……実はね、最初に会ったときからずっと――話しかけてたんだよ』
その声に応じるように、アルスが水を蹴って海面へと浮上していく。
顔を上げたルーナは、信じられないというように目を見開いた。
(ずっと……そんなに前から……)
アルスの瞳が、まっすぐ彼女を見つめ返す。
『言葉が通じなくても、気にしてなかったよ。ぼくの心は、ずっとトレーナーさんと繋がってたから』
その言葉に、ルーナの胸はじわりと熱を帯びた。
「ごめんね……アルス。今まで、全然気づいてあげられなかった……」
ルーナがそう言うと、アルスはぺろりと舌を出し、彼女の頬に優しくキスを落とした。
そのぬくもりに、ルーナはふふっと笑い、彼の顔をそっと抱きしめる。
ふと、船上から父とメイドの声が届いた。
「おーい、ルーナぁ!」
「お嬢様、ご無事ですか!?」
「お父さま! ナミ! こっちよ~!」
ルーナは大きく手を振る。
『あれって、トレーナーさんの家族?』
「ええ。……今はルーナって呼んで。これが、今のわたしの名前だから」
『ルーナ……分かった! ――じゃあ、しっかり掴まってて!』
「えっ? ちょ、ちょっと待っ――きゃああああ!?」
言い終えるより早く、アルスはルーナを乗せたまま再び海へ潜り、勢いよく水中を駆ける。
だけど、もう怖くなかった。
――アルスが、そばにいてくれるから。
『よーし、それっ!』
水を蹴り、アルスは海面を突き抜けて跳躍する。
しぶきが舞い、星々のきらめきと海の銀光が視界いっぱいに広がった。
「わあ……きれい……!」
思わず見惚れたその瞬間、アルスは巨体ごと客船の甲板に乗り上げる。
「きゃっ!?」
その衝撃でルーナは背から転がり落ちたが、すぐに誰かの腕に抱きとめられた。
「ルーナ! 無事か!?」
「お父様!」
ビンゴの胸に飛び込んだルーナは、笑顔で言った。
「ええ、アルスが助けてくれましたの!」
「アルス……というのは、あの白黒の……魔物か?」
警戒心を隠せず剣に手を掛けるビンゴに、ルーナは首を振る。
「違いますの。彼は魔物なんかじゃありませんわ。わたしの、大切な相棒なのです」
『その通り!』
アルスが尻尾と頭を同時に上げ、愛嬌を振りまく。
「おや、ずいぶんと賢そうな子ですね……」
「……だが、あの姿。文献にも記録がない……」
ナミが感心する一方で、ビンゴはなおも警戒の色を解かない。
――だがその時。
再び船体が大きく揺れた。
「お館様ーっ! もう、もちませんーっ!」
それは、海竜の猛攻を受け続けていた兵士たちの悲鳴だった。
「分かった、今行く! ルーナ、お前は船内に避難していろ」
「でも……!」
戸惑うルーナの横で、アルスが甲板を這うようにして海へと戻っていく。
「アルス、まさか……!」
『任せて! ぼくがやる!』
「アルス、待って! 危ないわ!」
ルーナの叫びも聞かず、アルスは荒れる海へと躍り出る。
その巨体が、海面を滑るように海竜めがけて突進し――
『てやあああっ!』
次の瞬間、海面を切り裂いてアルスが跳ね上がり、海竜の長い首へとダイビングプレスを叩き込んだ!
「プルウウルルルッ!?」
苦悶の声を上げる海竜。
だが、まだ終わらない。
口から放たれた水鉄砲がアルスに迫る。
「アルスっ!」
ルーナが叫ぶ間にも、アルスは水中を縦横無尽に泳ぎ回り、巧みに水撃を避けては、何度も体当たりを叩き込む。
その動きはまるで、かつてのショー演目のように正確で、美しく、そして力強かった。
『これで……終わりだぁっ!』
最後の一撃――アルスは海竜の喉元へと飛びかかり、そのまま巨体で食らいつくように突き刺さる。
海竜はくぐもった悲鳴を上げると、やがて力なく、深い海の底へと沈んでいった。
海竜が暗い海へと沈んでいくと、甲板にはしばし静寂が訪れた。
「すごい、です……!」
「まさか、あの海竜を――単独で……!?」
唖然とするナミとビンゴ。
だがすぐに歓声が湧き上がる。
アルスは勝利の雄叫びを上げるでもなく、ただルーナの方を見つめて胸びれを揺らした。
「アルス……やっぱりすごいわ!」
ルーナが瞳を輝かせて駆け寄ると、彼は嬉しそうに頭を下げて応える。
「まぁ……! まるで海の守護獣ですわ!」
先に声を上げたのはララだった。
頬を紅潮させ、両手を胸に組んでいる。
「伝説の物語を目の当たりにしているよう……。あの光景、絵に描き留めずにはいられませんわ!」
ララが感激する一方でステラは、扇を唇に当てたまま視線を落とす。
「確かに見事でしたわね。ただ……あれほどの巨体、万が一暴れれば船もひとたまりもありません。ルーナ、あなたは本当に気をつけなくてはなりませんのよ」
夢に酔うララと、現実を見据えるステラ。
母と姉の対照的な声に、ルーナはふと苦笑する。
「大丈夫よ。アルスはわたしを守ってくれるもの」
その言葉に、アルスは嬉しそうにひときわ大きな声を上げた。
『ふふーん、ぼく、強いでしょ?』
「すごいわ、アルス! あなたのおかげで助かったのよ!」
『えっへん! ……それよりも――』
そう言って、アルスは口をパカッと開けて見せた。
『お魚ちょうだいっ。ねっ、ぼく、がんばったでしょ?』
無邪気なねだりに、ルーナはくすりと笑う。
「そうね。ショーの後は、いつもそうしてたものね」
彼女は懐かしむように目を細め、父へと向き直る。
「お父さま、厨房から生魚をいくつか持ってきてくださいません? アルスに、ご褒美をあげたいんですの」
「あ、ああ。そういうことなら、お安いご用だ。待っていなさい」
快く頷いたビンゴは、すぐに船内へと戻っていった。
「アルス。お父さまが今、お魚を持ってきてくれるから、ちょっと待っててね」
『うん! ぼくはお利口にしてるよ!』
「ふふ……ほんと、前と何も変わらないわね」
ルーナの口元に自然と微笑が浮かぶ。
どこまでも真っ直ぐで、甘え上手で、心優しい――前世から変わらぬアルスの姿が、嬉しくてたまらなかった。
「ルーナ、持ってきたぞ」
「お父さま! ありがとうございます! ――ほら、アルス。お魚よ」
父から受け取った生魚二つを、ルーナはアルスの口元へぽいと投げ込む。
『ごっくん! ……ごちそうさまっ!』
アルスはそのまま一口で呑み込み、嬉しそうに声を上げた。
その姿を見て、ルーナは再び微笑む。
まるで時が巻き戻ったような、穏やかであたたかいひとときだった。
――そして、その後もアルスは船を離れようとはせず、クルーズが終わるその日まで、ルーナたちと共に海を旅し続けたのだった。




